舛谷研究室のページ

Tourism, Rikkyo Univ.

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熊谷直樹『わかりやすい資料作成の技術』

2003年06月26日 · Book

かんき出版、2003
デジタルプレゼン本はいろいろ買ってしまうのだが、全部役立つという本はなかなかない。『説得できるプレゼン・図解200の鉄則』日経BP、2001を参考に以下のメモを作ったことがある。
熊谷本では「バリアフリープレゼンテーション」というのが新鮮だった。日本人男性の5%、白人男性の8%は、赤や緑について差が感じにくい視覚特性を持つとのこと。以下は紹介されている国立遺伝学研究所のページ

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電子辞書 カシオEX-word XD-J55

2003年06月25日 · Language

ハリーポッターフェニックス(原書)を読み聞かせするのに、英単語の高速検索が必要。はじめはパーム辞スパでやっていたが中断されて不評。ビッグカメラで3480円をポイントを使って安く買う。英和和英のほか、漢字、四字熟語辞書付き。
それでも日本語はぎこちなく、結果的に子供たちを早く寝かせることができる。

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ハリーポッター

2003年06月23日 · Book

6/21世界同時発売の『フェニックスの勲章』は1秒間に7冊ずつ、正に飛ぶように売れているようだが、我が家にも日本時間6/22にアマゾンから届いた。
Harry Potter (Book 5) US版: Harry Potter and the Order of the Phoenix” J. K. Rowling (Author), Mary Grandpre (Author); Hardcover; ¥1748
日本語版はいつになることだろう。

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キオークマン

2003年06月06日 · Language

早稲田に東和のシステムを見に行ったら、おみやげにキオークマンエースをくれた。パナ教育システム製とのこと。何のことはない、マイク付きヘッドフォンでしゃべった声が耳に増幅して届くという仕組み。ちゃんと単三電池も入れる。当たり前すぎてよくわからないが、目で見て、声に出して、耳で聴くことで情報が記憶中枢に送り込まれるとのこと。LL教室でヘッドセットでつぶやいても同じことだが、そう言われれば集中できるような気もする。結局家で子供に音読や漢字練習させるとき、だまして使っている。

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東南アジアの中国語出版物ー立教大学所蔵「Goh Collection」について

2002年10月07日 · Area Studies

 東南アジアの出版物のうち、現地語や欧米語については各地の国立図書館や大学図書館の収集範囲であり、現地に行けば何とか利用できることも多い。しかし、東南アジアの中国語出版物については、系統的でないのはもちろんのこと、継続的に収集が行われていないことさえしばしばある。また、現物があっても未整理で利用できない場合も少なくない。新聞、雑誌などの定期刊行物については、1950、60年代華字紙の現物が中国の厦門大学南洋研究院に、旧英領の華字紙のマイクロフィルムがイギリスのBritish Museum (News Paper Library) に所蔵されている場合もある。しかし、単行本については、そもそも自費か助成金出版で、出版社が版を重ねることもほとんどなく、最初の刷部数も千部未満で、時代を遡っての収集は非常に困難である。書店で買うというより、むしろ直接個人からもらいうけるという形態が収集の決め手となっていた。こうした東南アジアの中国語書籍のありかたは、国内では京都大学東南アジア研究センター図書室などが所蔵しているタイの葬式本に酷似していて、葬儀の引き出物として死後に配布されるか、名刺代わりに生前に配付されるかという違いしかないような、自伝的な内容の書籍も少なくない。
 華語小学校から政党まで、華語系華人向けに揃えているマレーシアにしても、過去の出版物を手に入れるのは至難の技で、たとえば筆者が研究対象とする馬華文学(マレーシア華語系華人文学)では、せっかく文学史を整理し学校で教えていても、古典に当たる作品を読ませることができないという憾みがある。こうした状況を打開すべく、1998年にはジョホールバルのKolej Selatan(南方学院)内に馬華文学館が開設された。この施設は1940年代以来のマラヤ〜マレーシアおよびシンガポールの華語文学出版物3000冊以上を収め、閲覧用はすべて複写本を作成するという念の入れようで、資料の利用とともに保存を重視している。全国組織であるマレーシア華文作家協会のバックアップもあって集められた蔵書だが、そのほとんどは元マラヤ大学教員の呉天才氏の40年におよぶ足で稼いだ収集の成果である。呉氏は母語である中国語の他、国語であるマレー語でも詩を中心に創作を発表している実作者でもあり、国立言語図書研究所と連携したマレーシア翻訳と創作家協会の有力メンバーとして、馬華文学とマレー文学の相互翻訳に尽力している。かつてはマラヤ大で馬華文学、中国文学を講ずるとともに、各地へ赴き精力的に中国語書籍を収集されてきた。その成果は1934年以来 40年間の馬華文学書目である『馬華文芸作品分類目録』(マラヤ大中文系叢書、1975)にもまとめられている。マラヤ大学退職後、呉氏の蔵書はシンガポールの南洋理工大学中華語文文化センターに引き取られるはずだったが、文化財の流出を危惧したマレーシア華人社会がメンツをかけ、シンガポールの一歩手前、ジョホールバルで食い止め、文学館として保管されることになったとのことだ。
 ところが呉氏は複数冊の収集を常としており、馬華文学館入りした蔵書の相当部分についても、複本があることが判明した。立教大学では1999年度にこれらの蔵書の購入を決め、2000年の受入れ以来整理を進め、このほど一般の利用が可能になった。日本に渡ってきた「Goh Collection」は約1500タイトルで、書籍の他に文芸誌も含まれている。また、マレーシア、シンガポールの他、フィリピン、タイ、インドネシアの中国語書籍が全体の一割を占めているのも特徴である。前述のような経緯もあり、現地華字紙には、氏が外国に高く売り付けたのではないかという中傷記事も見られたが、現在の書籍単価に比して全く適正な、むしろ安価に提供されたことを記しておく。呉コレクションはすでに立教大学蔵書目録検索や雑誌以外はNACSIS Webcatでも検索可能で、今後は目録または文献解題を作成することも予定している。

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東南アジア文学への招待

2001年11月07日 · Area Studies, Book

TonanAsia.gif
編者 宇戸清治/川口健一         
舛谷共著
段々社(発行) 星雲社(発売)
本体 3,500円 四六判350頁
発売日 2001年11月
ISBN4—7952—6518—6 C0098

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竹内好と黎明之碑

2001年01月07日 · Area Studies

 正月二日、大宮氷川神社へ初詣の帰り、遠回りして新大宮バイパスから白鍬通りをとおって島根氷川神社へ行った。竹内好の日記(1963.1.24,2.3,3.11)で「黎明之碑」という“大東亜戦争記念碑”を起草していることを知り、近所なので見に行こうと思ったのだ。バスなら大宮駅西口から加茂川団地行きで団地入口だろう。田んぼの向こうに新年の幟の立った神社があった。
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 鳥居から本殿まで数十メートル、普段は子供の遊び場にもなる近所の神社といった風情。参道脇ではたき火で近所のおじさんたちが手をあぶっている。元日には甘酒のふるまいくらいあったかもしれない。久喜の太田神社を思い出させる、うらやましい正月の光景だ。ぐるりまわっても碑は見つからない。大宮市島根には鴨川沿いにもう一つ神社があるからそっちだったかも。たき火にたむろしているおじさんに聞くと鳥居の横にあるという。写真で言うと白い車のトランクの上のあたりだ。
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 台座をあわせると高さ2メートルほど、碑の大きさだけでも1メーター四方以上ある予想よりずっと立派なものだった。
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上の大石板に右書きで「黎明之碑」とあり、ここ島根から第二次大戦に従軍して戦没、生還した人々の名前、下のプレート状の小石板が竹内好の文章である。
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そこには縦書きでこう刻まれている。
 かつての軍国日本の時
代に 大東亜戦争に召さ
れて兵士となり** 何年間
も家族と別れて *大陸や
南方の島々*に苦労を共に
した戦友われら そのあ
るものは不幸にして中道
に倒れたが 幸*に生き残
ったものがその志をつぎ
 相たずさえて祖国再建
にいそしみ ここに平和
と繁栄の道を確定し得て
 今日改めて過ぎし日を
追憶し 亡き友の冥福を
祈り われらが志の徒労
でなかった喜びを後代に
傳えん*がために 世界人
類の永世平和を祈念して
 うぶすな**の社の地にこ
の碑を建てる
 昭和三十八年*三月三日
 空白は原文(日記1963.2.3)に忠実で、行頭にあっても段下げではない。*は原文と違う箇所で、4行目「読点〜空白」5行目「島に〜島々に」、8 行目「幸運に〜幸いに」、17行目「伝えん〜傳えん」、21行目「一九六三年〜昭和三十八年」。**は好の原案とは違うが代案の方を採用した箇所で、2行目「強制されて兵士となり〜大東亜戦争に召されて兵士となり」、19行目「産土〜うぶすな」。日記(1963.1.24)には「石に刻まれる文が書ければ文筆業者として冥加につきる」とあるが、石碑裏に献金した人たちの名があるばかりで、好の名は特に記されていない。
 昨今の歴史修正主義の流れの中で、「大東亜戦争と吾等の決意」(1942)から「大東亜戦争記念の碑」(1963)までの竹内好の道程は、避けて通っていたナショナリズム考察の手がかりとなるのだろう。
参考文献
『竹内好全集』筑摩書房
鶴見俊輔『竹内好−ある方法の伝記』リブロポート、1995(16.大東亜戦争記念の碑)

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東南アジア華人文学の過去・現在・未来

2000年10月14日 · Area Studies

加藤剛先生からお声がかかり、京大の研究会で話しをした。華人文学でおしゃべりするのがこんなに楽しいとは思わなかった。
第10回「民族間関係・移動・文化再編」研究会のお知らせ
-「東南アジア華人文学の過去・現在・未来」-
1. 日 時:2000年10月14日(土) 11:00〜18:00
2. 場 所:京都大学東南アジア研究センター・東棟E207
3. プログラム:
11:00〜12:00
北野正徳(大外大)
「オランダ領東インド時代のマレー語華人文学:作品についてのいくつかの視点」
12:00〜12:15 質疑
13:30〜14:30
舛谷 鋭(立教大)
「マレーシア華語系華人文学<馬華文学>について」
14:30〜14:45 質疑
14:45〜15:45
長岡みゆき(大学院大)
「シンガポール華人英語文学:詩を中心として」
15:45〜16:00 質疑
16:15〜16:45
コメント 山本信人(慶応大), 小木裕文(立命大)
16:45〜18:00 総合討論

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Chinese Language Literature in Malaya during the Japanese Occupation (1941-1945)

2000年03月11日 · Malaysia

Writing literary works in colloquial Chinese by Chinese writers living in Malaya began in the 1920s. However, those works written before the 1950s have been treated either as a part of Malayan literature or as a part of Chinese literature. On the other hand, those works written after the independence of Malaysia have been clearly dissociated from Chinese literature and definitely treated as a part of Malayan literature. This manipulation in the treatment of the Chinese literary works in studies of the literature history appears to be closely connected with the identity issue of overseas Chinese living in Malay. In such a contextual backdrop, those works written in the period of Japanese Occupation has been delibarately ignored. The present report is a first step toward filling this void in the history of Chinese literature in Malaya.
As soon as the Japanese military administration started, the publication of most of the periodicals thus far published in Malaya were banned. Instead, the military government began to publish periodicals specifically for the purpose of promoting support of and obedience to the military rule. In addition to such pro-government publications, there were also anti-Japanese resistance literature. Most of them were underground publications or not formally published until the end of the war.
Malay literature in the period of Japanese occupation has already been studied by Prof. Michiko Nakahara, who published an article entitled, “Malay literature under the Japanese Occupation: tracking the Malay nationalism” (1978). In this article, Prof. Nakahara states as follows:
“In the publications made during the Japanese military
administration, the freedom of expression was severely
restricted. As a result, the literature could not play a
proper role. Needless to say, it was abused as a means
for disseminating political propaganda (p.221)”.
Also, she puts:
“It should be noted that a number of Malaysian youth who
joined the nationalist movement under the British
administration became journalists and wrote a variety of
literary works during the period of Japanese military
administration. In spite of severe restrictions imposed on
the publications, it is remarkable that their works
successfully depicted lives of the common people during
the period (pp.233-234)”.
In addition to Prof. Nakahara, Arena Wati (1968) and Li Chuan Siu (1966) also refer to the Malay literature under the Japanese Occupation in their historical studies of the modern Malay literature.
A number of the works which could not be published during the military administration began to be published as soon as the war was over. Also, it was not unusaul that posthumous works of the writers who died during the war were published on Chinese language newspapers in the period immediately after the war. Those works written during the military administration and published in the post-war era are assembled to the Chinese Malaysian Literature Hall in Johor Baru, which opened in April 1998.
Most of the 3000 Chinese language literature originally assembled to the hall were collected by Wu Tiancai, ex-profeesor of the Department of Chinese Studies, Malaya University, from the 1940s to 1990s. At first, South Seas University for Science and Engineering in Singapore planned to purchase Wu’s collection. However, this plan was suspended due to the effort of the individuals who regret to let it out of the home country, Malaysia. Facscimiles of 2272 volumes in the collection were also assembled to Rikkyo University, Tokyo, Japan last year and are planned to be used as sources for Chinese Malaysian studies.
In the period of Japanese Occupation, three Chinese language newspapers [that is, Syonan Ribao of Singapore, Xinya Ribao of Kuala Lumpur, Binan Xinwen (the former Binan Ribao) of Penang] and one Chinese language magazine were authorized to be published. These newspapers included literature columns of about 2000 letters. The only magazine which was allowed to publish was “Nanguang Zhoukan (Nanguang Weekly)” published by Syonan Nippo Company. This magazine also included pages of novels and poems.
Underground Chinese language publications during the Japanese Occupation are currently being collected and sorted by Malaysian and Singaporean scholars. These publications included periodicals such as Ziyoubao and Jiefangbao which are said to have been published nearly once a month. These publications consist of four pages as a total and one or half page of them (that is, about 2000 letters) were assigned to print literary works. Because very few individuals or institutions have kept such underground publications until today, a large portion of the literary works published on them has been completely lost forever. With regard to this issue, Fang Xiu, a Malayan Chinese literature historian, says as follows:
“Over 95% of the Chinese literature in Malaya during the Japanese
military administration appeared on underground publications. The
loss of most of them is an irrecoverable damage in the history of
Chinese literature in Malaya. We can do nothing but leaving a
significant part of the literature history blank forever (Fang Xiu
1995, p.34)”.
Thus, the loss of the publications is substantial in Malaysia. In contrast, several hand-written journals published in the military administration such as Zhenli Xunkan (by Zhenlishe), Zhengui Banyuekan (by Bai Caohan) and Yinghuo (by Xinzhou Wenyi Yanjiuhui) managed to survive in Singapore.
In addition to the above sources, Chinese language literary works are also included in the following materials: (1) writings of imprisoned anti- Japanese resistance members and (2) writings of refugees. The former includes not only works written on pieces of papers or on walls of prisons, but also those memorized by peer inmates, visitors, and so forth. Most of these works are naturally short and are usually poems because of the difficult situations in which they were created and recorded. It is mentioned that a collection of poems, “Zhenzhushan shang (on the Perl Mountain)”, which was jointly edited by Xiao Yang (or Hai Lan, the autonym is Lin Ziping) and Ye Jinzhong, included more than ten such poems. Of these, only two or three of them were successfully reconstructed in the post-war era. It is a rare example that last works of Wang Qunshi, a Chinese essayst, who committed a suicide in 1942 were written on pieces of wrapping papers and are completely preserved until today. It is conceivable that letters, wills and so forth of resistance inmates are also discovered in future.
A number of Chinese influential persons escaped out of the Peninsula Malay before the fall of Singapore. The case of Yu Dafu, a leading Chinese writer, who died in Sumatra is a well known example. These individuals published works in the locality to which they escaped. For instance, Li Tiemin who was the editor of a literary works column (“Shisheng”) on the “Nanyang Shangbao” newspaper in the 1930s escaped to Indonesia with Tan Kahkee and published literary works there until he migrated to China in 1948.
It should be noted that some of the works in Chinese language literature during the Japanese Occupation were privately printed. For instance, poems of Feng Jiaoyi who died in October 1940 were compiled and privately printed by his friends. Fifty copies of this private publication were distributed only to his close friends.
Fang Xiu (1999, p.5-9) enumerated the names of many Chinese writers who died during the Japanese Occupation, which include Tie Kang, Wang Qunshi, Zhan Xi, Xiao Yang, Dai Qingcai, Yu Dafu, Huang Qingtan, Zi Yan, Jiu Hui, Chu Hang, Ke Lan, Li Ciyong, Ke Xintong and Rao Baiyin. It will be of certain significance for Japanese researchers to be involved in the study of Chinese language literature in Malaya during the Japanese Occupation from the view point of the nationals who are responsible for the death of so many Chinese writers.

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現代マレー文学からマレーシア文学へ

2000年02月07日 · Malaysia

 Li Chuan-Siuは「現代マレー文学」を1942年ないし1945年からと規定しているが、マレー文学が「近代」を迎えたのは、19世紀半ばの『アブドゥッラー物語』(中原道子訳、平凡社、1980)からと言われている。その後1920年代以降の大衆文学の普及に伴う出版流通の整備、1940年代の現代文学の幕開け、1950年代からの社会主義リアリズムの流行と1970年代における集束というのが、マレーシアのマレー人、華人、タミル人など各民族、さらにはインドネシアも含めた文学状況の推移である。
 マレーシアの言語状況はマレー語、華語(共通中国語)、タミル語と民族ごとに異なっていて、それぞれの文学世界が展開している。さらに1977年の統一正書法制定以来、マレー語による現代文学はインドネシア、マレーシア、シンガポールと広く東南アジア島嶼部に広がりを持つ。たとえばインドネシア人作家、プラムディアはマレーシアの学生にとっても必読書だ。一方、華語による文学は大陸中国、台湾など両岸四地にも広がり得る。たとえばペナンの長編作家方北方の『ニョニャとババ』は香港で映画化され、主題歌はスタンダードナンバーとして歌い継がれている。こうした言語からして多様なマレーシア文学は、日本でどのように紹介されているのだろうか。
 作者読者を問わず、アジアを除外した世界文学から学び、たとえばマレーシア人が東南アジア文学を知らないというような状況は、日本を含めアジア各国共通である。トヨタ財団はアジア文学の日本語への翻訳出版助成である「隣人をよく知ろう」プログラムを1978年から行っている。以下に紹介する翻訳書のほとんどが、あとがきに「隣人をよく知ろう」プログラムの成果であることを記しているが、特に「東南アジアブックス」シリーズを発行する井村文化事業社の出版物の多くがこのプログラムに拠っていた。しかし既刊本は勁草書房を発売元として入手できるものの、すでに同社は活動を停止している。一方、大同生命国際文化基金による翻訳シリーズ「アジアの現代文芸」の中にも何冊かマレーシア文学が含まれている。同基金の出版物は大学、図書館などへの寄贈が主で書店では入手できないが、アジア文庫や書肆アクセスなどには流通させてほしいものだ。
 翻訳書については出版状況からして暗雲が立ちこめるが、こうしたマレーシア文学作品が図書館などで所蔵されていることを前提に、日本語翻訳作品を中心としてマレーシア文学の流れを追ってみよう。
 現代マレー文学の画期は「50年代作家グループ」(ASAS50)による戦後文学である。当時シンガポール在住のマレー人作家、クリス・マス、ウスマン・アワン、マスリ・S・Nらが「芸術のための芸術より社会のための芸術を」をスローガンにナショナリズム、反植民地、反封建、貧困などの問題を題材に執筆活動を行った。彼らは社会派のレッテルを貼られることが多いが、マレー文化、古典を含むマレー文学の振興という側面も持ち合わせている。この中では後に述べる国家文学賞の第一回受賞者であるクリス・マス(1922生)の『クアラルンプールから来た大商人』(1982:佐々木信子訳、井村文化事業社、 1993)が翻訳されている。
 1960年代には詩人グループを中心に「60年世代」が登場した。開発、汚職、農村などの社会問題を題材に、シャーノン・アハマッド、S・オスマン・クランタン、A・アマッド・サイド、メラン・アブドゥラら、日本で翻訳されている作品の多くを含んでいる。アジアアフリカ文学について開発独裁下での抵抗などのイメージを持つ人々にも受け入れられやすいようだ。
 シャーノン・アハマッド(1933生)の『バングルの虎』(1965:星野龍夫訳、大同生命国際文化基金、1989)は開発による農村社会の変質を活写している。『いばらの道』(1966:小野沢純訳、井村文化事業社、1981)は映画化されたものが日本でも上映されており、原作とは違う展開の妙は、読んでから見てもがっかりしない。
 S・オスマン・クランタン(1938生)の作品では『闘牛師』(1976:平戸幹夫訳、井村文化事業社、1988)と『ある女の肖像』(1990:加古志保訳、大同生命国際文化基金、1998)が、翻訳されている。
 A・アマッド・サイド(1935生)の『娼婦サリナ』(1961:星野龍夫訳、井村文化事業社、1983)は英仏中でも訳されている作品で、英領下の大都市シンガポールを描いている。同じく古き良きシンガポールを描いた作品に華人作家苗秀(1920生)の『残夜行』(1976:福永平和・陳俊勲訳、めこん、1985)がある。戦直後から活躍していた苗秀は、1970年代以降、はっきり別々の道を歩んでいるシンガポールとマレーシアの華語文学の中で、両国に共通の馬華(マラヤ華人)作家として認識されている希有な存在である。
 これ以外では、アディバ・アミン(1936生)の『スロジャの花はまだ池に』(松田あゆみ訳、段々社、1986)には表題作「スロジャの花はまだ池に」(1968)の他、この女流作家の半生記である「ほろ苦い思いで」(1983)が含まれている。また同じく女流作家であるカティジャー・ハシム(?生)の『白鳩はまた翔びたつ』(1977:星野龍夫訳、井村文化事業社、1985)、華人作家では方北方(1918生)の『ニョニャとババ』(1954:奥津令子訳、井村文化事業社、1989)などが翻訳されている。今後はカティジャー・ハシムの『一夜の嵐』(1969)や、50年代作家グループ、60年世代に続く第三世代のアンワル・リドワン(1949生)の「意識の流れ」によるマレー農民を描写した諸作を日本語で読んでみたいものだ。
 マレーシアの文学にマレー語、華語、タミル語文学などがあることは先に述べたが、それらの交流はどのように進められているのだろうか。1983年、ウスマン・アワンによって国立言語図書研究所(DBP)に「各民族文学翻訳情報委員会」が設立される。敏感に反応したのが華人で、同時代マレー語文学の華語への翻訳は60年代から進められていたが、1986年にマレー語、華語作品の相互翻訳のためのマレーシア翻訳創作協会を設立する。彼らの成果はDBPで出版されたり、華字紙、マレー語紙などに掲載されたりしている。1988年にはスランゴール中華大会堂の主催で「各民族文学シンポジウム」が行われ、マレー人、華人、タミル人作家が集まってマレーシア各民族の文学について話し合い、マレー人作家ではクリス・マス、ウスマン・アワンらが参加した。日本で出版された『マレーシア抗日文学選』(原不二夫編訳、勁草書房、1994)は1938年から1954年の華人4、マレー人1の5作品を収めた作品集だが、帯の「マレー文学・華語文学を会わせて収録した恐らくは世界初の試み」との惹句がいまだマレーシア本国で破られていないことに注意していただきたい。
 シンガポール作家協会編『シンガポール華文小説選、下』(福永平和・陳俊勲訳、井村文化事業社、1990)は『吾土吾民』(1982)から作品を選んだものだが、原著は王鼎昌の「建国文学」形成の要請に応えて1965年以降の作品を集めたものだ。マレーシアではこうした「国家文学」の意識は1971年のマレーシア文学賞以来、国家文学賞(Anugerah Sastera Negara)に受け継がれている。第1回のクリス・マス(1981)以来、シャーノン・アハマッド(1982)、ウスマン・アワン(1983)、A・アマッド・サイド(1986)、アルナ・ワティ(1988)、ムハマド・ハジ・サレ(1991)、ノルディン・ハッサン(1993)、アブドゥラ・フセイン(1996)らの受賞者には、勲章、3万リンギの賞金をはじめ、執筆出版活動への援助と生涯医療手当、作品の5万部買い上げとDBPによる外国語への翻訳などが行われる。国家文学賞はマレーシア市民によるマレー語小説、脚本、詩などを対象に、作品自体の価値、世界文学の中での価値、国家文学を構築するものとしての適正さ、の3つを選定基準として掲げている。しかし政治的マイノリティに属する華人作家らは疎外感を受けており、1989年には華人社会独自の「マレーシア華文文学賞」を制定し、第一回受賞者として方北方を選んでいる。マレー人に「マレー文学」と「マレーシア文学」の区別はないと言われる。多民族国家におけるマレーシア文学の形成にはまだ時間がかかり、そうした中でわれわれ外からの観察者の存在も意味を持つのではないだろうか。

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