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マレーシアの華語文芸誌『蕉風』の休刊

1999年05月07日 · Malaysia

 プロ作家がほとんどいない東南アジアの文壇において、奇跡的に44年の長きに渡って刊行され続けていた華語文芸誌『蕉風』(Bulanan Chao Foon)がこの2月、488号で事実上停刊した。
 1955年に方天(張海威)の主編で登場した『蕉風』はシンガポール発行ながら、当初香港でも読まれていた。ちなみに張海威は毛沢東に追われた中国共産党の有力者、張国壽の子弟である。大陸以外の華語文壇で屈指の長編作家黄崖から、今日に至るまで経済的に支え続けた姚拓まで、主に香港経由で東南アジアに「南下」してきた華人作家たちによって編集されてきた。50年代末には発行地をマラヤに移し、華語(中国語)を非国語とする地域では最も充実したマレーシアの華語教育制度に支えられ、華語系華人の民族文学の発表の場として、主に現地華人の投稿によって成り立っていた。マレー文学やインドネシア文学など、東南アジアの他民族の文学や、台湾文学、中国現代文学の紹介の場でもあり、「現代派」と呼ばれるポスト・リアリズム作家の牙城でもあった。
『蕉風』はマラヤ大学卒業生や台湾留学組など、2世、3世華人を主な読者としており、常に新しい血を入れ続けた編集陣は、『星洲日報』などの華字紙文芸欄担当者の養成場所ともなっていた。アジア通貨危機に伴うマレーシア経済の低迷の中でも、ここ2年ほどは装丁を変更したり、中学生向けの『少年蕉風』を添付したりと健在振りを示していたが、蕉風出版基金会の設立も空しく、このほど休刊に及んだ。創刊当初から毎号1500リンギ、最近では毎号6000リンギ(約20万円)の赤字を出し続けていた公称2000部の文芸誌が生きながらえたのは、実業家としても成功した華人作家らの無償の庇護によるもので、それも積み重なる欠損には耐えかねたようだ。

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マレーシア華人による戦後の文学論争

1998年10月07日 · Malaysia

 馬華文学(マラヤ/マレーシア華語系華人文学)は中国五四運動の影響で生まれた口語文学運動である。その後も社会主義的な“現実主義”を「モダン」として1980年代以降“現代派”と呼ばれる台湾経由の「ポストモダン」さえ生み出す現在進行形の文学世界である。
 本報告では馬華文学の形成から戦後の文学史の創出、1990年代の文学論争まで触れたが、前半の内容については東南アジア史学会59回大会要旨を御参照いただきたい。
 戦前1920年代末の中国革命文学に呼応した南洋新興文学と現地題材にこだわる南洋色彩文学のせめぎあいから、日中戦争期の中国ナショナリズム一色の抗日救(中)国文学、戦直後の僑民(仮住まい)派と馬華(現地)派の僑民文学論争まで、馬華文学において文学論争は度々行われてきたが、1990年代には六字輩(1960年代生れ)作家を中心に「経典論争」が行われた。
 日本留学中のSilvia Sianが文壇の中心的な文芸副刊「文芸春秋」を持つ全国華字紙『星洲日報』に投稿した「開庭審訊」(1992.5.1)は、前年末東南アジア史学会関東例会における筆者の発表と当日の日本人研究者の反応を題材にしたフィクションだが、馬華文学がマレーシアにおける中国文学と評価され、「朝日歌壇」と同等スケールに扱われた内容は、挿絵の馬華文学が絞首刑になる戯画とともに大きな衝撃を与えた。その後4ケ月に渡って主に「文芸春秋」への投稿という形で議論が続いたが、当初の「日本史学権威的偏見」(岳衡、1992.5.16)、「馬華文学与日本学者」(王炎、1992.5.16)など単に外国人への反論に留まるものから「馬華文学“経典欠席”」(曾慶方、1992.5.28)、「馬華文学正名争論」(陳応徳、1992.5.30)など馬華文学のあり方自身に目を向けたものが主となっていった。後に「経典論争」と呼ばれるようになるこれら議論の焦点は、馬華文学の経典(古典)の創出に収斂され、具体的には現代馬華文学における古典の有無、ノーベル賞を頂点とした内外文学賞による評価、また言語状況や地域の独自性の反映などが取り上げられた。すなわちマレー人を含む対外的評価の誤謬をいかに解消するかという問題だが、少なくとも馬華文学の古典は1960年代からの方修、苗秀らの文学史整理によって確定していたのではないか。しかし「期待経典的出席」(劉国寄、1992.6.8)など論争の経緯に見られるように、文学史創出期の成果は「マレーシア文学」への参加を指向する現代馬華作家にとって納得できるものでなくなったようだ。もはや華人自身の現地帰属意識は問題でなく、Chinese Malaysianとして内外に認められることが大きな欲求となって渦巻いていることはこの論争を見ても明らかだろう。

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シンガポール・マレーシアを読む8冊

1998年10月07日 · Book, Malaysia

原不二夫編訳『マレーシア抗日文学選』(勁草書房、1994)
 マレーシア文学の翻訳には、本国で映画化もされたアハマッドの『いばらの道』(勁草書房)や、香港で映画化されて主題歌がスタンダードになった方北方の『ニョニャとババ』(勁草書房)などがあるが、本書のようにマレー文学と華語文学を併せて収録したものは本国にもないだろう。マレーシアに限らず東南アジアの華人にとって、世代を問わず生きた歴史である「抗日期」(1937-1942)と「陥落期」(1942-1945)のうち前者に材を採った1938年から1986年までの作品が収められている。
野村亨監修『北ボルネオの歴史』(慶応義塾大学SFCジャーナルモノグラフ、1997)
 現マレーシアは1957年にイギリスから独立したマレー半島部の西マレーシアと、1963年に連邦に加わったボルネオ島の東マレーシアの二つの地域から成り立っている。東マレーシアについては本国で国民史として記述された『マレーシアの歴史』(山川出版社)が日本語文献としては最も紙幅を割いていたが、本書は現フィリピン領スールーを含むボルネオ島の北半分の歴史を記した日本で最初の書物である。1942年から足かけ4年に渡る日本の占領によって歴史的に、現在は木材や石油の産地として経済的に、日本とのつながりが深いこの地域を改めて見直してみたい。
萩原宜之『ラーマンとマハティール』(岩波書店、1996)
 地域研究センターとして1960年に発足し、現在でも日本の代表的アジア研究機関として、高等教育機関の人材育成拠点として、数々の成果を上げるアジア経済研究所(IDE)だが、定期刊行物『アジア動向年報』にその一部が見られる日録は、現地紙誌の切り抜きという地道な作業の結晶である。こうした基礎資料を網羅してまとめ上げられたのが本書である。同じ現代アジアの肖像シリーズ『リー・クアンユー』でも、そうした実証的な手法は光っている。
苗秀『残夜行』(めこん、1985)
 苗秀(1920-1980)はシンガポール、マレーシアが別々の国になって30年以上経つ現在においても、両国の華人のとって共有される希有の文学者だが、その作品は本書のような戦時のシンガポールを描いた抗日小説と、今やウエットマーケットにしか残らない、生きた牛車水(チャイナタウン)を描いた『シンガポールの屋根の下で』のような都市小説の二系列がある。方言語彙をちりばめた彼の作品は、今読んでも充分新鮮である。
リー・ギョク・ボイ『シンガポール 近い昔の話』(凱風社、1996)
 問題意識が先か、史実が先か。アジア太平洋戦争の見方で常に議論となる点だが、どのような立場を取るにせよ経験者の証言には何かしら得るところがある。シンガポールでは国立文書館口述局を中心に戦争体験などの聞き取り資料を蓄積しているが、それらは新しいこの国にとって大事な歴史である。本書はこうした一次資料によって構築された生活誌である。なお日本軍政に的を絞ったものとしては、大著『新馬華人抗日史料』の抄訳『日本軍占領下のシンガポール』(青木書店)がある。
信夫清三郎『ラッフルズ伝』(平凡社、1968)
 昭和18年に出版された本書が、当時内務省から敵国人賛美で発禁にされたことはよく知られているが、今も日本の東南アジア研究の業績として輝いている。平凡社の東洋文庫シリーズにはこうしたアジア物の本当の名著が多く収録されているが、その批評精神によってマレー近代文学の先駆けに位置される『アブドゥッラー物語』などもこの地域の古典の一つである。
ラット『カンポンのガキ大将』(晶文社、1984)
 日本でも知られるマレーシアの漫画家LATの『The Kanpung Boy』の翻訳である。マレー集落での遊び、風俗が描かれていて楽しい。本書に続いて10才から進学で来た街での生活を描いた『Town Boy』など、ラットの自伝物はどれもいい。シンガポールには『Mr.Kiasu』(COMIX FACTORY)が居て、主人公のキアスーは都市生活を満喫しているが、カンポンと都市、マレー人と華人の生活は、やはり対照的である。
金子光晴『マレー蘭印紀行』(中公文庫、1978)
 光晴の散文、特に『どくろ杯』など回想三部作の愛好者は多いが、これらの作品は彼の放浪(昭和3年—7年)から40年近い時間を置いて書かれたものである。その点『マレー蘭印紀行』は昭和15年出版で、その数年前に書き終えていたこともあって、事実表記も簡潔だ。両者を並べて読む試みは楽しいが、詩人金子光晴にとっては『鮫』や「南方詩集」(『女たちへのエレジー』所収)が大切なのではないか。
 「—乞食になるか。匪になるか。兵(ピン)になるか。・・・さもなければ、餓死するか。」散文の秘密もそこにある。

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中国における東南アジア研究

1997年11月07日 · Area Studies

 1997年夏、日本学術振興会特定国派遣研究者事業によって中国北京市、福建省、広東省に渡航の機会を得た。現地で見聞きすることのできた範囲で中国の東南アジア研究状況を紹介したい。今回の研究課題は「中国における華僑華人研究」であったが、訪問した機関、研究者等は結果的に該当地域の東南アジア研究の現場と重なった。
 今回の調査で、戦前からの研究団体として現在の中国における東南アジア研究に人的な側面で最も継承性を持つのは、1940年にシンガポールで設立された南洋学会(Southseas Society)ではないかと思われた。はじめ中国南洋学会と呼ばれた同学会は、初の中国人による民間学術団体で、後に重慶で北京大学東方学系の前身である南洋研究所を設立した姚楠、シンガポールの歴史研究者許雲樵、作家の郁達夫らが創設メンバーとして参加していた。現在もシンガポールで『南洋学報』を、中国を含むアジア各地で「南洋学会叢書」を発行している。
 一方上海には1930年代、現在広州で復興されている曁南大学があり、同校の南洋美洲文化事業部は『南洋雑誌』や「南洋叢書」を発行し、東南アジア研究の成果を掲載していた。また資料に限れば、日本占領期を含む1930-40年代に厦門でアジア資料の収集を行っていた海彊資料館などがあった。
 中華人民共和国成立後の東南アジア研究の劃期は1956年の南洋研究所設立であろう。現在厦門大学南洋研究院として『南洋問題研究』などを発行している同研究所は、中国の東南アジア研究の総合センターとして文革前は旺盛な資料収集、研究に勤しみ、現在資料室には当時の遺産として、他に見られない資料、たとえばインドネシアや他の東南アジア諸国の1950、60年代華字紙が所蔵されている。
 1966年に始まった文化大革命期には、特に1971年までは南洋研究所を含むあらゆる研究機関が活動を停止したが、1972年から東南アジアの法令、外交文書などの翻訳から研究の一部が再開された。1976年の文革集結後、特に1980年代に入ると再び各地で研究活動が盛んになったが、この頃全国組織の研究団体として1978年に中国東南アジア研究会が設立されている。『中国東南亜通訊』を発行している同会は現会長の厦門大学歴史学系、孫福生教授によると、現在400名前後の会員を持ち、中国唯一の東南アジアに関する学術研究団体とのことだ。
 90年代になると、1988年に設立された中国社会科学院アジア太平洋研究所に事務局を置くアジア太平洋学会が政府の認可を得ており、研究所編の『当代亜太』で同会の研究活動を知ることができる。国家直属の研究機関である中国社会科学院の中では世界歴史研究所など複数の箇所で東南アジア研究、資料収集が行われている。また中国社会科学院は共通の大学院を持ち、人材育成や派遣を行っている。
 高等教育機関でも東南アジア研究が進められているが、たとえば北京大学では前述の東方学系(前東方語言学系)やアジアアフリカ研究所において研究、人材育成が行われている。専任教員はいないが、アジア太平洋研究センターも先ごろ開設された。
 南洋研究院を擁する厦門大学では歴史学系なども東南アジア研究を行っており、前述海彊資料館の資料も図書館や南洋研究院資料室に所蔵されている。また欧米ではアムステルダム自由大、ライデン大やコーネル大、アジアではフィリピンのアテネオ大と交換派遣プログラムを行ない、それらは手続的経済的にまだまだ容易でない海外渡航のチャンスを研究者に与えている。
 広東省では中山大学に東南アジア研究所があり大学院が併設され、『東南亜学刊』の発行も行っている。前述上海校の名前を受け継ぐ広州の曁南大学には東南アジア研究所(紀要『東南亜研究』)と華僑華人研究所があり、それぞれ研究、資料収集を行っている他、図書館でも華僑華人資料の収集が行われている。
 広西、雲南各地方の社会科学院(広西紀要『東南亜縦横』、雲南紀要『東南亜』)では地の利を生かし、それぞれインドシナ、タイ研究が盛んだ。その他、福建省では泉州の華僑大学や福州の師範大学、広東省では汕頭大学、河南省ではベトナム研究と『中国東南亜通訊』の編集を担当している鄭州大学などで組織的な東南アジア研究が行われている。また国家認定等級では前記ジャーナル類より格上の、これらの大学の『学報』にも研究成果が発表されることが少なくない。
 なお華僑華人研究については『華僑華人歴史研究』を発行する北京の華僑華人歴史研究所など、各地の華僑歴史学会が帰国華僑の動向なども押さえている。
 最近の具体的な研究成果については厦門大学南洋研究所資料室編『東南亜研究論文索引(1980-1989)』(厦門大学出版社、1993)に詳しいが、学界の勢力を結集したものとして姚楠主編『東南アジア歴史辞典』(上海辞書出版社、1995)、周南京主編『世界華僑華人歴史辞典』(北京大学出版社、 1993)、周南京主編『世界華僑華人百科全書』12巻(北京大学出版社、1998-)などが挙げられよう。
 1970年代からは海外の研究文献の翻訳作業が盛んで、例えば中山大学東南アジア研究所訳『東南アジア史』(商務印書館、1982)はD.G.E.Hall A History or South-East Asiaの全訳であり、原書の漢籍資料の誤りについて補注が施してある。この手の漢籍文献についての考証では顧海編著『東南亜古代史中文文献提要』(厦門大学出版社、1990)の他、タイ、フィリピン、インドネシア、ベトナム、ラオス、カンボジアなど国別の漢籍文献選編が出版されている。
 華僑華人の研究は東南アジア研究の中でも中国人研究者が特色を出せる分野だが、林金枝『近代華僑投資国内企業概論』(厦門大学出版社、1988)は華南での現地調査の結果に基づく実証的な研究であり、別冊の地域別資料編が充実している。
 また文革以前の研究としては「オランダ東インド会社時代のバタヴィア華僑人口の分析」(厦門大学南洋研究所、1981)が文革以前に完了していた一次資料利用の研究で、当時の水準を示すものと言えよう。
 中国では人海戦術によって新聞、雑誌記事切り抜き、索引作成が各図書館、資料室ごとにそれぞれ行われており、研究状況を知る方法に事欠かない。前述の『東南亜研究論文索引』も英日文献を含むとは言えB5版900ページの大冊で、すでに1990-1993年分も編集済みと言う。
 中国人研究者には世代による研究方法、動向の差異が顕著と思われるが、特に1950、60年代の東南アジアからの帰国華僑で研究者になった50歳、60 歳台の人々は現地語、現地事情に通じ、その後の半鎖国的状況下で主導的な役割を果たしてきた。一方いわゆる文革世代の40歳台の研究者は現地語資料を利用できる者は稀で、国外で研究者養成が可能になった20歳、30歳台の研究者との間に挟まれる格好なのは他の分野と同様である。
 もっとも出国がたやすくなったとは言え、日本と逆にこの10年で1/10になった中国元のレートを考えると、海外調査どころか外国書の購入も困難で、文書館でも外国雑誌の購読を打ち切るところが増えている。このように経済的な要因で自費渡航のチャンスが少ないため、公的な出国のチャンスを得るには国際学会での役職がものを言うわけで、昨今の国際学術団体での中国系人の“活躍”は由ないことでもないようだ。

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カンボジアの華僑ライフ: カンボジア国民としてたくましく生きる「華人」たちのエネルギー

1995年05月07日 · Cambodia

 1993年の国連監視の総選挙の時は、日本からも自衛隊や選挙監視ボランティアが派遣され、「カンボジア」の文字が踊らない日はなかった。1994年はODA(政府開発援助)が実際に始まって、少しは話題になった。そんなカンボジアにも「華僑」がいるのだろうか。
 カンボジアは主にクメール人と呼ばれる人たちが住んでいて、クメール語(カンボジア語)とクメール文字を使う。700年ほど前、クメール人の王国はとてもにぎやかで、かのアンコール・ワットが建設された。ワットを含む世界有数の巨大石造建築群であるアンコール遺跡にたどり着くにはベトナム、ホーチミン経由もあるが、カンボジアの首都プノンペンから遺跡のあるシェムリアップまで、日に何便も旅客機が飛んでいる。
 プノンペンのホテルカンボジアーナあたりに一泊するコースなら、是非町中も見学してほしい。一番の繁華街は空港からの道と垂直に交わって南に折れるモニボン通り(旧アチャミン)。道の両側にあるわあるわ、漢字の看板。東南アジアの都市を訪れたことのある人には見慣れた光景だが、これぞ華僑が商売しているところ。中央市場の脇のラパイヨッテで旧フランス領仕込みのフランス料理というのも良いが、ここは中華料理にチャレンジ。この土地の華僑はタイと同じく先祖が潮州出身という人が多く、料理もちょい辛目の潮州料理。
 モニボンが商売の場ならトンレ・サップ(サップ川)沿いは華僑の生活の場。特に王宮の南側には茶館や香港映画専門の映画館、中華学校なうますぎたりして現地人とうまく行かないこともあるそうだが、最近のカンボジアでは憎まれ役はむしろタイ人。中国の援助を受けたポルポト時代にもクメール、華人の区別なく迫害されたそうな。実は1979年にカンボジア国籍への書き換えが行われ、今や中国籍の「華僑」はおらず、現地化した「華人」がほとんど。今後も現地に住み着いた華人が、カンボジアのためにその実力を遺憾なく発揮してくれることでしょう。

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上海租界の深く暗い世界

1995年02月07日 · Area Studies, Tour

 ジャズが鳴り、艶やかなチャイナドレスが光るモダンな歓楽街だけがオールド・シャンハイのすべてなのだろうか。旧フランス租界のダスカ(大世界)で、胎内巡りを思わせる細く暗い階段を上っていると突然不安に襲われることがある。魔都と言われた上海のもうひとつの顔を垣間見ることは、今では決してできないはずなのに…
 かつて上海には租界(外国人が警察・行政を管理するエリア)があった。そこは欧米列強の中国植民地支配の拠点だった。アヘン戦争後の1846年に置かれたイギリス租界が最初だが、このとき開港された五港の中で上海は商工業港としての実力をいかんなく発揮しはじめる。開港後、華僑のふるさと福建・広東からの航路が活発になり、船員、港湾労働者が流入し、一部の流亡者は無頼の徒として上海に居を定める。その後海外のチャイナタウン成立過程と同様、移民の郷土単位の互助組織、同郷会館が設けられる。福建、広東人の商人がそれら同郷会館の理事を務め、各地からの流民は理事に従属し郷土グループ:幇(パン)を形成した。当時こうした幇は、地元上海グループを含めて七党あったという。
 幇の複合体である三合会系の秘密結社小刀会は、後に長江沿いに進出した哥老会と合流して紅幇となるが、1853年には南京の太平天国軍に呼応して上海各地で蜂起した。小刀会は旧城内に立てこもって清軍に抗戦。今も小刀会の名残を留めるヨ園北の点春堂は当時作戦本部だった。その間武器弾薬食料は租界から供給されたという。清軍は租界に攻め入ろうとしたが、阻止しようとする英米軍と小競り合いになり、このとき幇は英米軍側に加担した。
 太平天国の乱で故郷を追われた人々は上海の、特に租界に流入し、その数は1854年には2万人を越えた。従来租界内の中国人の土地取得、居住は禁止されていたが、こうした人口圧力によって1855年から中国人の租界内居住が認められ、租界人口、ひいては上海全体の人口増大につながった。
 このようにしてふくれあがった上海の租界は、共同租界、フランス租界、華界をあわせて「三界四方」と呼ばれた。現在のメインストリート南京路は共同租界の、准海路はフランス租界の中心街である。三界は各エリアごとにそれぞれ異なる行政警察機構を持っていたから、端境は取り締まりが及びにくく、流氓たちの格好の活動場所となっていた。中でも三界の接する延安東路付近は無政府状態に陥っていたという。
 紅幇と並ぶ上海の代表的秘密結社青幇の根拠地も、地理的にいくつもの無政府地帯を含むフランス租界にあった。近年「黒社会」と表現される幇に属する者は、解放前の上海300万人口の四分の一に及んだという。全き幇の世界である上海では、例えば青幇大亨(大親分)の黄金栄、杜月笙、張嘯林らは老若男女国籍を問わず誰もが知る超有名人だった。
 黄金栄はフランス租界の警察の密偵から警察署長にまで出世し、この間特権を利用して幇会三宝(烟、賭、娼)に勤しんだ。現在上海師範大学に隣接する桂林公園は、もと黄家公園と言い、黄が父母の墓碑を築いた花園である。その広さと豪華さは当時の幇の力量をうかがわせるに充分なものであろう。
 杜月笙は浦東生まれで、果物屋で働きながら青幇に加入。黄金栄門下で頭角を現した。国民党支援で重慶退避に同道した杜だが、上海では寧海西路の公館の他、東湖路の東湖賓館や戦直後に香港に亡命するまで住まった錦江飯店などが縁の場所である。その他、旧上海博物館は元々1929年に杜が開業した中匯銀行のビルだった。中匯銀行は幇会頭目が興した初めての近代的銀行組織で、フランス租界内のアヘン業者、賭博業者の資金を吸い上げた。1934年完成の中匯銀行ビルは、当時上海でも有数の高層建築として名高かった。
 張嘯林は浙江生まれで、のちに杭州に出て流氓と交わり、上海で青幇の一員となった。禁烟運動で杜と反目するまで後述する大公司の経営者のひとりだったが、杜が重慶に居る間に日本と結んで上海に君臨しようとし、国民党政府の不興を買って暗殺された。
 前記の幇会三宝の中でも組織を支えた大資金源は烟(アヘン)だった。金、杜、張の三人は1925年頃結集して大公司を設立し、アヘン市場を独占した。当時は租界各地に「燕子窩」と呼ばれるアヘン窟があったが、特に金陵東路、寧海東路周辺は密集地帯だった。アヘン窟を取り締まろうにも、華界では軍閥警察、フランス租界ではフランス警察が全面的にバックアップしていたのだから手が付けられないわけである。特に1920年代から1930年代にかけて杜が理事長を務めた頃の大公司は、全中国のアヘン市場を支配していた。当時大公司のアヘン取り扱い量は年間600トンから2000トンで、租界、公司、軍閥三者の手数料は一億元を越えたという。
 三界からは外れるが、旧日本人街についても触れておこう。バンド(外灘)からガーデンブリッジ(外白渡橋)を渡りブロードウェイ・マンション(上海大廈)の脇を抜けて西に二本目の四川北路は、虹口日本人居住区のメインストリートだった。当時は魯迅行きつけの内山書店や歌舞伎座、中国人作家たちのたまり場だったABC喫茶店やクンフェイ珈琲店が並び、更に北上した虹口公園の南には上海神社があった。日本人倶楽部は南に戻った共同租界内の呉淞路にあり、交差する乍浦路の中ほどには東本願寺。寺址も今では塀の支柱にわずかな面影を留めるだけである。
 以上のような租界を中心とした上海が、赤い星の出現とともに眠りについて数十年が経つ。しかし魔都の実態であった秘密結社が、今をときめく「新租界」浦東に復活しないと考えることはむしろ難しく、杜月笙直系の子孫はまたも浦東で生まれているかもしれない。

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インドシナの華人社会−カンボジアを中心に−

1994年06月07日 · Cambodia

 カンボジアの中国系住民(華人)は1960年代には50万人を数え、内カンボジア国籍の外籍華人は20万人であったという。当地にも主要な方言集団(五大幇)は揃っているが、近50年は農村部にも進出した潮州人が8割を占め、都市に多かった広東人を凌駕している。
 他の東南アジア諸国では農村部に住む華人は大変少ないが、カンボジアでは農村部にまで均等に華人が浸透していることが60年代までの特徴である。
 フランス統治時代は他のインドシナ諸国と同様、華人は現地民とフランス人の間に介在する存在だった。特に農作物流通に大きな役割を果たしていた。農村部の収穫物は各村の地方小商人によって集められプノンペン、バッタンバン、コンポンチャムなどの国内都市に送られ、メコンを通じて海外への窓サイゴンに流れ込んでいった。こうした構図は当時ラオスでも同様である。
 植民地政庁は華人に対して方言集団ごとの「幇」への加入を義務づける幇公所制度を採っていた。各幇の代表である幇長は構成員の出入国・居住・納税の保証人であり責任者でもあった。この制度は独立後も中華理事会館制と名前を変えて引き継がれ、1958年に廃止されるまで続いた。「会館」の廃止は華人社会固有の中核団体消滅を意味するが、実際廃止されたのは多数派の潮州、広東幇の会館で、福建、海南、客家各幇の会館は60年代を通じて残存していたようだ。
 カンボジア近現代史の中でも何度かの反華人暴動が認められるが、1967年にはビルマと同様の紅衛兵事件が起こり、政府の華人締め付けにつながった。またロン・ノル政権成立時のインフレ、物不足への不満は反華商暴動へと結びついた。
 ロン・ノル政権の点の支配の下、農村部でゲリラ戦を展開していた亡命政府は、制圧地域を徐々に広めて行った。内戦下で地方農村に分散していた華人商人は都市、とりわけプノンペンへ集中的に避難し、また中国系と現地系の混血児であるSino-Khmerは戦時下で土着化を強いられた。ここにカンボジア華人社会の一大変化が見て取れる。
 インドネシアのプラナカン、マレーシアのババ、フィリピンのメスティソ、インドシナではベトナムのミン・フォンなど、各地にクレオール化した混血華人の集団があるが、カンボジアのSino-Khmerはフランス統治時代から現地人扱いで、中国系の父、現地系クメール人の母を持つものがほとんどだった。更に75年以降には都市の華人有力者が生き残りのために農村に子女を嫁がせることもあったようで、クメール人の父、華人の母を持つSino-Khmerも皆無ではない。こうした中柬混血児の実態についてはどの時代についても審かでないが、彼らを含む中国系を指す「チャン」ということばはインドネシア語の Orang Cinaのように差別感を含まず、むしろ優秀、ミドルクラスといった語感さえ持つという。フランスなどの先行研究の発掘やその追跡調査によって、今後明らかにされるべき事項であろう。
 1992 年から華人による会館、団体の復活が許可され、かつての幇公所〜中華理事会館の流れを汲む柬華理事会が早速設立された。理事会は現在のカンボジアのチャイナタウンのセンターであるトンレ・サップ沿い、ウナロム寺の北に位置し、潮洲会館を兼ね、端華学校を併設している。端華学校は22年振りに再開された華語教育を行う小学校であり、6年教育で週15時間の華語教育を週6時間のクメール語教育と並行している。生徒数は3000人で華人子弟の他、5%のクメール人子弟を含む。他幇の学校がなかなか準備の整わなかったこともあって、潮州人に限らず各幇の生徒を受け入れ、また各幇の先生が教鞭を執っている。その後海南同郷会館の集成学校、客屬会館の崇正学校などが開校したあとも幇ごとというより近いところに通うといった状況が続いているようだ。
 民主カンボジア時代を経て、プノンペン市内の文化財を除く主な建物は徹底的に破壊されたが、日本橋の袂の福建会館は会館、民生学校の建物とも180年前の建造物が残り、館内の関帝廟も修復が進んでいた。福建人は居住の歴史も古く、富裕な商人が多いのが特徴だが、会館がポルポト時代を乗り切れたのには何らかの要因が考えられるのだろうか。
 日本でも報道されたように1993年中に華字紙が復活した。現地系の『華商日報』『独立日報』とマレーシア資本の『金邊時報』の三紙(その後タイ『亜洲日報』のカンボジア版発刊)で、『華商日報』と『金邊時報』は1994年6月現在も継続している。『華商日報』は現行では隔日刊で、現地の記事で占められ華人社会の回覧板の役割を果たしている。それに対して週刊の『金邊時報』(1993.12.13発刊、1994.8.11廃刊。全36期)は日本の夕刊紙のような娯楽性の強い作りで、広く東南アジア華人社会全体から材を取っている。発行部数はいずれも3000部程度だが、回し読みの習慣があり実際の購読者はそれより多いことが予想される。
 Willmot(W.E,)は1981年の論文の中でカンボジアの華人の問題を書き継ぐのに「ほんわずかな可能性」しか残されていないと断じているが、今や彼の地の華人の実態研究を再開するときが来たようである。(東南アジア地域研究者フォーラム例会(1994.5.30)要旨)
カンボジア華人研究参考文献
陳極星『越南高綿華僑事業』堤岸、1960
John R. Clammer “French Studies on the Chinese in Indochina: A Bibriographical Survey” Journal of Southeast Asian Studies, 12-1, 1981, pp15-26
華僑誌編纂委員会『華僑誌−柬埔寨−』台北、1960
ルヴァスール、成田節男訳『仏印華僑の統治政策』東京、東洋書館、1944
満鉄東亜経済調査局『仏領印度支那に於ける華僑』東京、1939
René Dubreuil De la Condition des Chinois et de leur Rôle économique en Indo-Chine Bar-Sur-Seine, 1910
高橋保「カンボジア華僑社会の現状とその性格」『東南アジア華僑社会変動論』東京、アジア経済研究所、1972、pp.121-169
W.E. Willmott The Chinese in Cambodia Vancouver; Cathay Press, 1967
W.E. Willmott “The Chinese in Kampuchea” Journal of Southeast Asian Studies, 12-1, 1981, pp38-45
張文和『越南高綿寮国華僑経済』台北、海外出版社、1956

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書評『華僑コネクション』

1993年11月07日 · Area Studies, Book

(樋泉克夫著 新潮社 1993)
 華僑・華人研究者は常に経済的側面からの情報を要求されがちであるが、本書はそうした関心に充分答えつつも華人存在の根源に迫ろうとした、著者の「最初の試みであり、出発点」である。華人研究は一種の定点観測であり、全体でないにしろ一つの視角を提供し得るものであるが、外務省専門調査員としてタイに長期滞在した著者の筆致は特にタイ華僑を事例としたときにキレを見せる。六四天安門事件に対するタイ華僑の反応から彼らの「(中国の)不安定への嫌悪」を嗅ぎ取り、《華》の持つカラクリの端緒を見出す。タイ華僑はまた台湾独立にも不支持を表明するが、そうした動きを社会混乱の本として「「一国二政府」でも、「二つの中国」、「一国両制」でも、「一中一台」、まして「台独」でもない。一つの、しかも豊かで安定した中国」を求める気持ちの現れであるという指摘は鋭い。具体的には華僑・華人の台独反対には大陸、台湾の本家争いから得る漁夫の利を失うとの危機感もあるが。
 現に存在する華僑・華人の持つ世界観について、本書ではチョロン華僑の次のような発言によって紹介されている。「いま、アジアを動かす大きな力は中華の血を引く「三李」(李鵬、李登輝、リー・クワンユー)だ」。こうした見方は華僑的認識とも言うべきもので、事実として史学研究の対象ではないが、彼らの行動原理を知るために現象として無視することは出来ない。が、時として著者自身がこうした認識方法に巻き込まれることがあり、今後の体系的な研究の中では峻別が必要だろう。
 本書の魅力の一つは著者が持つ豊富な現地情報の中から引く事例の数々で、それらは華僑情報に有りがちな演繹的なものでなく示唆に富む。例えばアンコールワット観光に道を拓いた“タイ華僑”チャーチャーイ、インドネシアの企業集団サリム・グループは「三人の林(リム)」の意味、タイでは華語教育問題は教育省でなく首相直属の国家安全保障会議が最終判断する等々である。更に世界各国の華僑華人人口など、華僑に関する統計は不明な点が多いが、出来得る限り現地国統計、台湾統計、大陸統計を併記して数値を明らかにしようとしている。実はこうした統計の出典を明記することさえ従来の華僑論では怠られていたことなのである。例えば僑社三宝(会館、華字紙、華語教育)のひとつである華字紙だが、タイでは6紙合計で発行部数20万部で、タイ字紙合計35紙300万部の 15分の1の規模という。華語が共産主義革命の媒体から経済の共通語へと転換するにつれてその数値以上の地域的広がりを持つこと指摘されているが、著者ならば例えばタイ以外の国におけるタイ華字紙の定期購読者数によってそれを実証出来るのではないか。
 現在も中国人移民=華僑は誕生し続け、結果としてその存在は多層に渡る。華僑華人全体を一つとして方向性を示すことは難しいが、結語の“華僑の「中国」が冷戦後新秩序に矛盾しないという保障はない”という指摘は現実から「《華》の持つカラクリ」に迫る視点を提供するものだろう。

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インドネシア華人の言語生活

1992年05月07日 · Indonesia

はじめに
 インドネシアの代表的Non-Pribumi(非原住系)である華人は、総人口1臆5千万のインドネシア共和国にあっては比率こそ低くなるものの、その数600万人*1は世界の華僑の8割を抱える東南アジアにおいて2割強を占め、国別に見てもマレーシア、タイの華人数、各450万人を引き離してトップである。現在彼等の大部分は国語(マレー語)を用いて言語生活を営んでいる。これはマレーシア半島の華人の大部分が華語を母語とし、日常交際ばかりでなく文学表現をも生み出しているのと対照的である。本稿はインドネシア華人の言語生活の一端を、マレーシア華人と比較しつつ、中国小説のマレー語への翻訳活動を通じて管見したものである。
オランダ領東インドにおけるプラナカン集団の形成
 東インド(インドネシア)において漢語小説の翻訳に携わったのは主にプラナカン(Peranakan)と呼ばれる土着化した華人である。彼等は漢字の読み書きができる新客(Totok,Singkeh)とは異なった言語、風俗、習慣を持ついわば「漢字を使わない中国人」である。
 ジャワへの中国人移民は清朝末期からまとまった数が流れ込み、単身渡来した彼等は現地のマレー系の女性と通婚、定住し、徐々に独自の集団を形成していった。彼等の集団において、母系はマレー人であることが多く、その系統から現地の生活習慣がところどころ取り入れられていった。特に、言語生活においては華裔ではあるが漢字を読めず、漢語にも不自由で、かわりにマレー語を意思疎通の手段としていた。中でもジャワ北岸の、華人が集中する地域の通用語であった平俗マレー語は、門南語をはじめオランダ語等ヨーロッパ語の語彙も含み、プラナカンの間に普及していた*2。
 プラナカンは部分的に現地化しているが、他の民族集団と融合することはなかった。当時の東インドでは支配者層であるオランダ人と現地民の間でプラナカンを中心とする東洋人は中間層を形成しており、植民地政府も各民族に固有の風俗習慣を維持させようとしていた。また華人の半数以上が商業に従事しており、農民や行商人の多かった現地民とは職能集団としても重なることはなかった。
プラナカンと中国小説の翻訳
 現地の需要に基づき、プラナカンの間で19世紀末からマレー語による印刷物の発行が始められた。特に新聞は早くから発刊されており、20世紀以降急速に部数を伸ばした*3。各紙は読者獲得の手段として中国の民間故事や通俗小説のマレー語訳を掲載した。彼等はすでに漢語を読み書きする能力を失ってはいるが、中国文化への関心を持ち続けており、明清の通俗小説を初めとする中国小説の母語(マレー語)への翻訳は当時のプラナカン集団の要請であった。
 19世紀に東インドで翻訳出版された中国小説は以下の通りである*4。
Tjerita dahoe loe kala di benoea Tjina, tersalin dari tjerita boekoe Sam Kok(三国志)Batavia 1883-1885
Boekoe LIatkok, Hikajat radjah negrie Tjinah, djaman Seetjioe poenja kaada-an(列国志)Batavia 1883
Boekoe tjerita Hoen Tjeng Lauw Tempo Hong Kian Tek Koen Merk Taij Tong Tiauw(粉妝楼全伝)Batavia 1883-1884
Song Kang(水滸伝)Batavia 1885
 また今世紀初頭には中国物の翻訳出版は更に増えたが、その作品は通俗小説に偏り、特に三国志には数種の訳本が現れた*5。
 ペナン、マラッカ、シンガポール等の海峡植民地でもババ(プラナカン)の手によって若干の中国小説がマレー語に翻訳されていた。
 1889年に出版されたEni-la Kitab dolu Kala dari pasal Gong Kiah Sie(貢女婿)*6は最も古い記録で、その他特筆すべきは三国演義、水滸伝、西遊記を一人で翻訳した曽錦文(筆名Batu Gantong)、後列国志を含む十数冊の翻訳小説をものした袁文成(Wan Boon Seng)の活躍だろう*7。
 しかしマレー半島におけるババの出版活動はあくまで中国物の翻訳紹介に留まり、東インドのような現地社会に普遍的な創作小説の創造への展開は見られなかった。東インドにおいてプラナカンによる明清通俗小説の翻訳紹介は、ユーラシアン(欧亜混血児)による『ロビンソン・クルーソー』『三銃士』などのヨーロッパ大衆小説の紹介と同時代に行われ、現地における出版文化の形成に大いに帰依するところがあった。翻訳小説は翻案小説、創作小説と発展し、特に1920年代にはジャワ各地でプラナカンによるマレー語文芸誌の発行が相次いでいる。こうした大衆文芸誌は毎号百ページほどの続き物で、この形態は東インドにおける大衆小説の出版形態として踏襲されて行く*8。
 一方海峡植民地では1858年に早くも華文による週刊の「日昇報」が発刊され、1881年には「叨報」*9に始まる華文日刊紙の発行が開始され、いわゆる馬華文学が発生している。
 このようにババ・プラナカン文学の両地域における状況は当初よりはっきりと異なり、現在の文学状況の相違にも継承されている。その原因については別に論を立てねばならないが、この時期海峡植民地に漢語を母語とする新客が集中し、ババ(プラナカン)を凌駕したのに対し、東インドでは数の上で新客よりプラナカンの方が多かったことは一つの要因であろう*10。
 大戦後、当時の代表的なプラナカンの新聞である《Sin Po》(新報)*11、《Keng Po》(競報)*12をはじめとするインドネシアの各新聞には中国種の武侠小説が連載され、また従来通り小分冊で出版され人気を博していた。930事件以降の中国との国交凍結、国内における華人受難の時期にもこれら武侠小説は何の制限も加えられず、出版を続けていた。Mekar Djaia、Pautja Satya、Sastra Kumala、Gema等は当時武侠小説出版のためにプラナカンによって設立された出版社である*13。
 50年代、60年代の武侠小説のほとんどは香港の武侠小説家、梁羽生、金庸の作品の翻訳である。70年代になると台湾の古龍の作品が数多く翻訳されている。このような漢語の武侠小説の翻訳はOey Kim Tiang(黄金長)、Gan Kok Liang(顔国梁)、Tjan Ing Djiu(曽栄球)等華語教育を受けたプラナカンによって行われていたが、近年そうした翻訳物は姿を消し、新しく出版されているのは現地で創作された「新作」武侠小説である*14。
 武侠小説以外に眼を転じると、プラナカンよりむしろ原住系の翻訳者の活躍が眼に着く。彼等は直接漢語から翻訳するのでなく、ヨーロッパで翻訳された中国文学作品からインドネシア語に重訳していた。最初の中国古典詩の翻訳もこうした形でなされている*15。このような重訳はもちろん原文に忠実であるべくもなく批判もあるが、代表的なインドネシア華人研究者である廖建裕(谷衣、Leo Suryadinata)は「ふつう訳詩には自身も詩心のある訳者が必要だが、インドネシアには華裔の詩人が多くない」と状況を説明している*16。
 上述のように中国古典詩の翻訳は多くないが、中国古典小説の翻訳には百年来の伝統がある。例えば三国志は19世紀末に初訳されてから何回か訳され、80年代になってからも二種の訳本が出ている*17。水滸伝についても同様で、1885年の初訳のほか、最近では二種の訳本が出版されている*18。これら諸本の訳文の違いは、インドネシア独立前のものが平俗マレー語で書かれ、地名人名が門南語音で表記されていたのに対して、最近のものはインドネシア語で書かれ、固有詞にはピンインが多くなるなど各時代の言語状況を反映している。
 近現代文学について付け加えると、最も早く紹介されたのはTeng Ying Siang訳の陳詮の戯曲で、この作品は国家出版局から1950年に出版されている。1958年には曹禺の『雷雨』がジャカルタで上演されている。小説では50年代に茅盾の『子夜』がスラバヤの左翼系雑誌《Ripublik》に連載され、阿Qをはじめとする魯迅の作品が1956年から1965年までの間に三種が出版されている*19。またスカルノ政権下のインドネシア〜中国の蜜月時代には中国外文出版社がプラムディア訳の『白毛女』などを出版している*20。その他インドネシア共産党の関連団体であるLekraは楊沫の『青春の歌』を翻訳出版している*21。しかし1965年以降インドネシア政府は大陸作品の出版を嫌い、1988年になって『狂人日記』*22が英訳からの重訳で出されたのみである*23。一方台湾恋愛小説の全アジア的流行の波からはインドネシアも例外でなく、80年代に瓊瑶の諸作が翻訳されている。
 独立後のマレーシアにおいて漢語小説は従来通り原文のまま読まれ、マレーシア語への翻訳は個人による紹介のレベルに留まった。シンガポールの南洋大学では60年代から中国文学を現地社会に紹介する試みがなされ、李全寿等が《大学論壇》《文化》《南洋文学》に中国、インドネシアの文学を翻訳紹介した。
 1986年には呉天才、年紅等の馬華作家を中心に馬来西亜翻訳与創作協会が結成され、タミール語作家とともに「マレー人によるマレーシア語の文学」を是とする国家語文局への働きかけが続けられ、その結果1988年には馬華短編小説選がマレーシア語で出版されたことは特筆される*24。
おわりに
 前述のようにプラナカンの小説はインドネシア大衆小説隆盛の前史として重要な役割を果たした。現在これらはインドネシアにおいて民族史観的文学史からはうち捨てられているが、押川論文が指摘する通り、プラナカン小説からニャイ小説、ロマン・ピチサンに至る小説群が「純文学に比べてはるかに多くの読者を獲得してきたという意味にとどまらない。現実と虚構の危うい均衡のうえに成立した人間の精神世界、それを映す鏡としての文学、その典型としての大衆文学」*25として正統に取り上げられて然るべきであろう。また20年代に紹介された中国小説の、伝播経路であったはずのマレー半島と東インドの華人の言語生活の相違は別に議論すべき問題である。
 インドネシア独立以後、特に1965年以降は現地式に改名する華人も多く、文献から華人を確定することは難しくなった。よって本稿でも第二次大戦後の記述は中国作品の翻訳書目の紹介に留まった。そもそも媒介言語であるマレー語を「インドネシア」語として選び取ったこの国において、多数派のジャワ人、スンダ人をはじめ国民のほとんどが二重言語生活者である。中で華人は最も国語(インドネシア語)の定着率が高いという。このようなインドネシア華人の現状は百年遅れで中国作品の翻訳を始めたマレーシア華人の状況とともに今後の研究課題であろう。
 なお近年インドネシア人学者の手によって詳細な文献解題が編まれている*26。

*1 華人の人口については各種統計が錯綜しているが、ここでは大陸出版の次の書物の数字に従って概数を提示した。 鄭民等編著『海外赤子ー華僑』北京 人民出版社 1985
*2 平俗マレー語(バタビア・マレー語)については1884年にプラナカン文学のパイオニアLie Kim Hok(李金福)による専著が著されているが、それについての最近の論稿に次のものがある。Lomberd,Denys “La grammaire malaise de Lie Kim Hok(1884)” Langages et techniques,nature et soci師・ Paris Klinkseck 1972
*3 温広益[等編著]『印度尼西亜華僑史』北京 海洋出版社 1985 第三編十二章
*4 Salmon, Claudine Literature in Malay by the Chinese of Indonesia: A Provisional Annotated Bibliography Paris Editions de la Maison des Sciences de I’Homme 1981
Tan Chee Beng “Baba Chinese Publications in Romanized Malay” Journal of Asian and African Studies 22 1981
*5 谷衣『戦前武侠小説在印尼』文学半年刊(シンガポール写作人協会)10 1982
*6 Singapore 1889
*7 梅井「峇峇翻訳文学与曽錦文」亜洲文化(シンガポール亜洲研究学会)2 1983
*8 押川典昭「『インドネシアの紅はこべ』とタン・マラカ」上智アジア学4 1986
*9 l・b・ 「叨」は南洋華人のシンガポールの呼称
*10 参考:東インドの華人総人口210万人(1950)中プラナカン150万人、新客60万人。(Victor Purcell The Chinise in Southeast Asia Singapore Oxford University Press 1981)
*11 1910年バタビア発刊
*12 1923年バタビア発刊
*13 廖建裕「印尼武侠小説概論」『南洋与中国』シンガポール 南洋学会1987
*14 廖建裕 ibid.
*15 Mundingsari訳 Himpunan Sadjak Tionhoa Jakarta Balai Pustaka 1949
*16 廖建裕「華文文学翻訳在印馬」亜洲文化(シンガポール亜洲研究学会)15 1991
*17 Sam Kok atau San Kuo Chie Yen I Jakarta P.T.Bhuana Ilmu Populer 1986
Kisah Tiga Negara Jakarta Grafitipers 1987
*18 Shui Hu Chuan-108 Pendekar Liang San- Jakarta P.T.Bhuana Ilmu Populer 1986 Batas Air Jakarta Grafitipers 1986
*19 Go Gien Tjwan, SSoekotjo訳 Riwajat Kita Ah Q Jakarta Pustaka Rakjat 1956 J Tannin訳 Riwajat Asli Si Ah Q Jakarta Jajasan Kebudayaan Zamrud 1961 Shanuu訳 Philihan Tjerpen Lu Sin Jakarta Jajasan Kebudayaan Sadar 1963
*20 Pramoedya Ananta Toer訳 Opera Lima Babak(Bai Mao Nu) 北京 中国外文出版社 1958
*21 Njanjian Remadja Jakarta Lekra 1964
*22 Catatan Harian Orang Gila Jakarta Yayasan Obor 1988
*23 スハルト政権下の華人観については以下を参照 高木暢之「インドネシアにおける中国観と影響力」 『東南アジアにおける中国のイメージと影響力』大修館書店 1991
*24 Cerpen Pilihan Sastera Mahua Kuala Lumpur Dewan Bahasa dan Pustaka 1988
*25 押川典昭 ibid.
*26 Oetomo,Dede “A Survey of Writing on the Ethnic Chinese in Indonesia” Asian Culture(Singapore Society of Asian Studies)11 1988

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現代ベトナム華人の文芸と華語教育

1992年03月07日 · Vietnam

 1975年以降のベトナム華人の状況は、通常ソースとなるべき東南アジア華人間の情報として漏れ伝わることも稀である。なぜなら南北統一以前の有力な華人にとって、統一は北による南の占領にほかならず、国際的な華人社会では台湾やアメリカの亡命華人が未だインドシナ華人のスポークスマンを努めている場合さえ少なくないからである*1。本稿はベトナムの中の一少数民族として生きようとする現代ベトナム華人の文化状況についての外国人によるノートである*2
 ベトナムは中国文化の影響を色濃く受け、日本と同様漢字文化圏に属し、現代語にも多くの漢字語を残している*3。更に科挙があり、日本と同じく漢文学が正統として認められていた。現地で研究対象となる華語文学と言えば、黎朝から阮朝にかけて盛んだった漢文学であり、Quoc ngu*4普及以後の文学史で華語文学が取り上げられることは稀である。
 ところで、筆者の関心は現代華語華人の文学にあるが、ベトナム随一のチャイナタウン、チョロン(堤岸)を持つ南部では、1940年代以降、《遠東日報》*5、《亜洲日報》*6、《成功日報》*7、等の華字紙が発行され、別刷りの文芸副刊は現地華人の華語作品の発表の場となっていた*8。その一端を聞き書きによって紹介すると、たとえば《遠東日報》の記者で華語教員でもあった烏増厚は社説に副刊に活躍し、この時期もっとも多作な作家であった。しかし彼の作品は出版物としてまとまったものがなく、その作品を検討するには《遠東日報》のバックナンバーを当たるよりほか方法がない。また華字紙の他にはいずれも短命ながら、日本占領期の総合雑誌《南風》、大戦後の文芸雑誌《人海》《新苗》等が現れた。
 商業雑誌が栄え、出版状況も整っており、読書の習慣も根付いている日本のような出版大国においては写作者にも様々な選択肢があり、「売文業」などという自嘲が通用するのだが、東南アジア一般、殊にマイノリティーの文壇では出版はおろか逐刊への発表さえ覚束ない。そうした場合、手軽な短詩形式がまず興隆するのが通例だが、40年代のベトナム華語文壇においても異彩を放ったのは馬禾里の新体詩だった。フランス留学経験のある彼の詩は、はじめ判りにくいと不評だったが、前述の烏増厚が《遠東日報》の文芸副刊に採用し後に出版された。同じ頃南僑中学の教員、屠亦夫の詩集も出版された記録がある。また60年代になって、詩集『愛する者に捧ぐ』(謝振煌)も上梓されている。一方、小説等の散文出版物は数少ない。雑誌《電影》の連載小説「三月時光」が50年代はじめに単行本になり、ベトナム中部の狩猟生活を描いた散文集『狩人』が60年代半ばに出版されたくらいだろう。
 ベトナム戦争後期の10年間の華語文学は《当代文芸》《南方文芸》等の香港の文芸雑誌を発表の舞台としていた。中で、李錦怡の小説は《当代文芸》主編徐速の絶賛を浴び、香港の高原出版社から発行されることになったが、徐速が『繁』と名付けたその小説集が1976年夏に出版されたとき、すでに著者李錦怡の行方は知れなかったと言う。
 1975年以降の現体制の中で、もっとも重要な役割を果たす華語メディアは、ホーチミン市第五郡のHAI THUONG Lan Ongに本社を持つ《解放日報》だろう。《解放日報》は前述《亜洲日報》の設備を接収して1975年5月5日から発行をはじめた。発行部数は1万数千部で、南部の一地方紙だが今では全国唯一の華字紙であり、華人社会で広く読まれている。この新聞の水曜日と金曜日の週に二回の文芸副刊によって、華語華人の文芸は細々と命脈を保っている。
 《解放日報》とその周辺における文芸活動が、もっとも盛んだったのはやはりドイモイに伴う「文芸界の春」*9の時期であろう。たとえば1987年、《解放日報》副刊編集部によって200余名からなる「解放日報文友倶楽部」が組織された。《解放日報》では1980年から毎年社外寄付による文芸コンクールを催し、1985年には短編小説、ルポ、随筆、旅行記を含む29編から成る文集『生活の激流』をホーチミン市文芸出版社と合同で出版しているが、《解放日報》の文友達が「倶楽部」として組織されたのは全くはじめてのことである。また1988年には今も《解放日報》の文芸部の中心である陸進義(筆名、旭茹)が堤岸文芸叢書の一冊として『梅花女』(ホーチミン市文芸出版社、解放日報合同出版)を出版している。10万字を越えるこの作品は越華文学にあっては立派な長編小説で、現時点までの一つの到達点と評価される。更に1989年には華人によるはじめての華語文芸誌「堤岸文芸」が解放日報文友聯誼会編、ホーチミン市文芸出版社と解放日報編集部の合同出版で、華文特刊として5000部発行された。しかし東欧激変のあおりを受け思想的引締めが強化されるにおよび、ベトナム文芸界の状況*10とパラレルに越華文壇の活動も失速して行く。
 現在《解放日報》を中心とする南部華語華人文芸界は非常に慎重な行動を要請されているものと思われる。しかし、22才の女性詩人、雪萍の香港への投稿など明るい話題もないことはない。
 このような若手台頭の兆しを生み出したのが当地における華語教育の現状である。ドイモイ以前、週5時限を上限とした少数民族の民族言語教育としての華語教育は、1987年以降3倍増の15時限が許された。初等教育を担うのは各小学校に併設された「普及センター」である。ホーチミン市には第五郡を中心に17箇所にセンターが設置されており、小学5年間の華語教育を行っている。教科書は市教育庁によって認定された全6冊の実験教材で、識字を中心とした教育が行われ、小学5年修了時には華語で手紙が書けるようになるという。
 しかしここにおいても人材不足は深刻で、教員の養成、教育が解放日報社の向かい、市第五郡のHAI THUONG Lan Ongの市華文教育補助会で行われている。補助会の華語教師のための講座は木曜日と日曜日の午前中に開かれている。同じ日に同じ場所で市華文教師倶楽部の活動も行われる。双方とも市教育庁の直属で、華人工作処の関連団体である。これら華人の文化団体で指導的役割を果たしているのが60年代に北京師範大学に留学した10人の華人たちで、今回の調査だけでも新聞社、華人団体などで3人の元留学生に行きあうことができた。
 さて、市華文教育補助会の役割であるが、その会章*11によると華語教育のための経済的援助、設備拡充を計画し、各方面に働きかけたり、会議を開いたりする権限が認められている。各学校には後援者の理事会もあるが、やはり組織として一本化しておく必要があるのだろう。
 現役の華語教員である補助会の面々によると、現地の華語教育のうちで最も困難なのは共通漢語の聞き取り、発音であると言う。これは、当地の華人家庭ではまだまだ広東語を中心とした方言が使われているせいで、小学4年からのピンイン(表音ローマ字)の使用による効果が期待されている。一方、中国人の中国人たる由縁と定義されることもある、漢字の識字であるが、75年以降、学生の困難を鑑みての繁体字から簡体字への切り替えという英断が効を奏し、まずまずの成果をあげているようだ。1991年からは小学校卒業時の華語初級卒業試験も実施され、全学生1505人中、受験者1484人、合格者1289人という好結果が出ている。現在、中学卒業試験も準備中であると言う。
 ベトナムと中国の愛憎が絡み合った千年来の歴史的関係の中で、中国人移民であるベトナム華人を客観的に把握することは非常にむずかしい。しかし、彼らが華僑でなく中国系ベトナム人であろうとするならば、同化を強制する以外の共生の道を取って行くことは必ずしも不可能でない段階に達したのではないだろうか。今後も華語華人の文化状況をそのマーカーとしてフォローして行きたい。

*1 例えばアジア華人作家会議に参加する越棉寮(ベトナム・ラオス・カンボジア)海外分会会長がアメリカ、副会長が台湾在住である。
*2 主なデータは1992年3月の現地(ホーチミン市)調査をもとにした。
*3 特に漢字由来の固有名詞が多い。例:ホーチミン(胡志明)
>*4 国語。フランス植民地時代以降普及したラテン化文字。
*5 1938年〜1975年
*6 1955年〜1975年
*7 1961年〜1975年
*8 阮庭草「越南南方華文文学的旧貌新顔」香港文学84 pp. 4〜10 1991
*9 加藤栄「ベトナムの文学が変りつつある」海燕1992-1
*10 文芸界におけるドイモイの中心だった《文芸》誌編集長の解任など。
*11 1989年11月3日発布

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