観光演習2,3年の後期初回はいきなりゲストスピーカ。旧知の作家、島村麻里さんにおいでいただいた。以下はそのときの私的メモ。お話しの順のまま、特に整理はしていない。随所に決まるフレーズがあるのはさすが。
-自称「交流系」
–名勝旧跡より人付き合い
–同類は引き合う
-交流の形態
–自分と現地のひと
–観光客同士
-再会命
-観光地は素通り
-家に転がり込みたい
-住まいに興味
-人の荷物の中を見るのも好き
–のぞき見?
-人がご馳走
-人間観察
-ミーハー
–好奇心旺盛という意味で私舛谷もミーハーを自負している
-香港、タイからマレーシアへ
-マレーシアは多民族国家
-ボルネオ島―東マレーシア—サラワクークチン
-マレー半島と東マレーシアは民族構成が異なる
-思い描いていたイメージ(ステレオタイプ)との差異
-多民族国家では誰もが外国人と思われない
-クチンはいわゆる観光化されていない場所だった
-行きっぱなしでなく、復習、事後確認をしてしまう
-多文化共生社会
–多文化主義
–マルチカルチャリズム
-知りたいという気持ち〜好奇心
-自分の好きなことを深める
-華人 Chinese Overseas
-自分のことばでも相手のことばでもない第三の交流語の存在
-日本—日本語—日本人という奇妙さ
-福建語、広東語、マンダリン:共通中国語、英語
-シンガポールの第一印象のわるさ
–成功したピョンヤン
–香港の情緒、シンガポールの無味乾燥
–しかし、多民族国家シンガポール
-顔かたちで国籍がわからない
-ムスリムをやめる?!
-インド人の宗教
–ヒンズー
–シーク
–ムスリム
–クリスチャン
-チャイニーズの多様さ、インド系の多様さ
-食べ物が入り口
-マレーシア:マレー人6、華人3、インド系1
-一見矛盾する、個々人の意見の持つ意味を理解する
-ブミプトラ政策:マレー人優先主義
-アジアの中でも日本の言論の自由さ
–あとで録音を聞き直すと、ここは舛谷の意見で必ずしも同意されていない
-書くこと
–個人として自由に
–異文化をどのように表現するか
–誰の目線で誰が書いているのか
–アピールはまだよい
–書き手ならではの書いたものへの批評
–対象と対等に向き合っているのか
–ノスタルジアの危険性
–ステレオタイプにあてはめ、自分の見たいものだけ見る
–例:ハワイ出身力士?
—サモア移民武蔵丸、サモア二世小錦、ハワイ人曙
-国籍と市民権
-アイデンティティの拠り所
-自分は何者か
-日本の特殊性
–日本は日本人とそれ以外
–地上の国境がない日本
–海を越えるから海外旅行?
-人との交流、人と語る
-人の移動と文化変容
–移動の様々
-ABCD(American Born Confused Desi):East Indian Americansのこと http://en.wikipedia.org/wiki/American_Born_Confused_Desi
-2007年度前期 全カリ総合B 担当予定
–アジア中の女性がはまる「ロマンティックウイルス」について
–同内容で出版予定あり
*質疑
-日本で交流するとき、どこに連れて行ったらよいか
–接待の作法
–希望を聞く
–選択肢を出して選ばせる
-交流系に危険は?
–日本語で話しかけられたら赤信号、英語で話しかけられたら黄信号
–ゲストの掟
–ホストの掟。
好きを仕事にする
2006年09月27日 · Podcast
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愛しのドリアン
2006年09月25日 · Malaysia
一時帰国者の増える夏休み頃、道ばたでパラソルを見ると心躍る。フルーツ屋台は数あれど、お目当てはもちろんドリアン。容器持参で中身だけ持ち帰り、家族四人の夕食はドリアン。最近はローカルでも、コレステロールがなどと避ける向きもあるが、こと外国人にとってこの強烈なシロモノは、食文化への理解度、順応性を示す格好の指標となる。ちなみに我がゼミはドリアン食いが参加の条件である。納豆に顔をしかめる知日派をどう思うか、と問いたい。
ドリ・アン(とげっ子)というマレー語が示す通り、マレー半島、スマトラ島が原産だが、国際流通するドリアンはタイ産が圧倒的だ。タイ東部ものの旬は5、6月とマレーシアより早めで、品種改良が進みともかく甘い。ペナンでタイ人とドリアンを囲んでいたときのこと。外れだと言うので味見すると、わずかな苦みを含む見事な味。甘い一辺倒に慣れた口には合わないらしい。私のベスト3は、カンボジア・カンポットの赤か黄の印付きドリアン、インドネシアが誇るメダンドリアン、そして1月のクチン市場のドリアンだ。どれも甘さの中にわずかな苦みを伴う逸品だった。
クチンのは小振りなカンポンドリアンで、あまりに美味しかったので、友人の車の後部座席に十数個積み込み、庭先でぽんぽん割って食べ続けた。十個(房でなく)食べ切ったところでさすがにお腹がぱんぱんになり、母堂が洗面器で持ってきてくれた濃い塩水をゆっくり飲み、命拾いした。
シンガポールの巨大ドリアン(エスプラネード)はもちろん、地名のカンポン・ドリアン、アミル・ムハマドの映画『ビッグ・ドリアン』などドリアンものにはつい目が行く。ドドル(餅米の一口羊羹)はドリアン味を選ぶし、マラッカ特産タン・キムホック博士のお店では干しドリアン、スプテの日本人会のスーパーのフルーツジャムは、人気のマンゴーやマンゴスチンを除けてドリアンジャムを取る。練りドリアンも嫌いではない。ドリアンシーズンに見かけるドリアンケーキ、パフ、パンケーキなどの洋菓子や、マンゴープリンならぬドリアンプリンも捨てがたい。
ジャカルタのチャイナタウンでは、華語断絶の32年間を含め、「新合発」と刻印されたドリアン味の月餅が売り続けられていた。ラードを使わず白い粉が吹くハラル月餅は、厳しい排華の時代、ドリアンゆえ許されたのだろうか。
学名は「強い香り」だそうだが、はじめて食べた香港で、ホテルに持ち込んでひどいことになった。ロビーは大丈夫だったが、エレベータが開くともう臭いがした。上階に行くにつれきつくなり、私のフロアには鼻を手で覆う人がいた。部屋に近づくと更に臭いが強くなり、入るなりあわてて腹に収めた。近所のデサスリハタマスの歯医者はなぜか冷凍ドリアンを売っていて、オフシーズンには有り難かったが、凍らせるとほとんど臭わないことを知った。日本への持ち帰りも可能だろう。しかし日本マレーシア自由貿易協定の発効で、マレーシアドリアンの日本上陸も近いと信じよう。
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ホテルと国際会議の持ちつ持たれつ
2006年09月12日 · Tour
ホテルという場は、私たちが個人レベルでさまざまな交流の拠点として利用するのみならず、そこは一国の威信がかけられた国際関係の檜舞台として、国家レベルでの交流においても重要な役割を果たしている。各国の代表的なホテルの成り立ちやロビーに掲げられたVIPの写真などからは、国際政治や国際関係の動きが見えてくる。
EUモデルが一応の成功を収めて以降、アジアでも様々な地域協力の試みが行われて来た。たとえばASEAN(東南アジア諸国連合)は当初反共連合として出発したが、今では社会主義国であるベトナムやラオスを加え、ASEAN10として地域の安定と国際社会での地位向上を図っている。APEC(アジア太平洋経済協力)のように経済協力に特化した会合や、世界華商大会のように特定のエスニシティによる国際会議もある。
国際会議の場として
こうした地域協力体は首脳会議や実務者会合など、定期的な国際会議を伴うのが常だ。開催地となるホスト国にとって、会議の成果や多くの国賓をもてなすことはもちろん、国際的に自国に関心を集めるチャンスでもある。各国首脳、大臣や随行員、マスコミなど、厖大な人員を受け入れる一大イベントの舞台となるのは、たいていの場合ホテルである。
たとえば、2005年に韓国で行われたAPECの場合、11月に最後の首脳会議がヌリマルAPECハウス(釜山)で行われるまで、前年12月の慶州コンコードホテルでの財務関係実務者会合を皮切りに、ソウル、仁川、大田、大邱、光州、横城など、韓国全土のホテルで1年に渡って様々な会合が開催された。そのうち、2005年9月にはAPEC財務大臣会合が済州島で行われたが、会議場として選ばれたのはオークラホテルズ&リゾーツの一つである済州新羅ホテルだった。このホテルは1996年の米韓首脳会談の際、クリントン大統領(当時)がスピーチした場所でもある。こうしたVIPの来訪はその後の会議誘致において連鎖を生むものらしい。
VIP連鎖で象徴的なのは首脳の写真撮影だろう。サミット(主要国首脳会議)で恒例となった首脳の集合写真は他の国際会議でも付きものだが、スピーチデスクのロゴばかりでなく、世界中のメディアに露出する写真、映像で、背景としてホテルの存在をさりげなく示すことは非常に重要だ。
MICEツーリズム
民間の取り組みばかりでなく、国策としてMICE(meetings, incentives, conventions and exhibitions)ツーリズムを掲げ、会議、展示会を積極的に誘致しているケースも少なくない。アジア域内で、シンガポールとともにMICEツーリズムに熱心な国の一つとしてブルネイがあるが、ホテルをはじめとする関連施設が完成したきっかけはやはり国際会議だった。
2000年、アセアンの最小国ブルネイはAPEC年次会合のホスト国となった。首脳会議、閣僚会議の他、財務大臣会合と中小企業大臣会合が首都バンダル・スリブガワンで開催されたが、その際、最古の王国を自負するブルネイ国が威信をかけて建設した会議・宿泊施設がエンパイアホテル(The Empire Hotel and Country Club)および国際コンベンションセンター(ICC)であった。
1994年から7年越しで、APEC開催の前の月にようやくオープンしたエンパイアホテルは、南シナ海を望む「六つ星」リゾートホテルである。広大な敷地内にはジャック・ニクラウス設計のゴルフ場やスポーツクラブ、劇場なども完備しており、各施設間の移動はカートで行なう。豪華な客室はもちろん、ゴルフやスポーツクラブ、スパなどがそれぞれ独立したアトラクションとして楽しめる。現在、日本からは直行便がなく、渡航地として一般に馴染みの薄いブルネイだが、金曜日が休日であるなど、アジアで最も敬虔なイスラム国として、特に米同時多発テロ(9・11事件)以降、西欧諸国への観光旅行が難しくなったアラブ諸国からのイスラム教徒観光客を引きつけている。
過去の栄光と未来への契機
このようにアジアの五つ星ホテルの中には、様々な国際会議受け入れを契機に建設されたり、改装されたものが少なくない。大理石張りなど豪華で大作りなロビーの一隅に、国際会議をはじめとした国賓来訪の写真を掲げているホテルもある。
しかし、立地や他のホテルとの競争で開設当時の高級路線を維持しきれず、メンテナンスも行き届かなり、そうした写真が過去の栄光に堕ちてしまう例もある。たとえばマレーシアのPlace of the Golden Horsesは首都クアラルンプール北郊のMINES Resort City内のホテルの一つだが、1997年、第2回ASEAN首脳会合、1999年にはゴルフワールドカップ開幕式が行われ、タイガー・ウッズが訪れたことなどを謳っているが、2005年現在、調度や備品の痛みが激しく、大規模なメンテナンスの必要性を痛感する。ここでも、契機になるのはやはり国際会議かもしれない。
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マレーシア首相記念館見て歩き
2006年08月10日 · Malaysia
マレーシアの首相は独立以来、まだ五人しかいない。制度の元のはずのイギリス首相もうらやむ、アメリカ大統領並の集権ぶりで、それぞれ「○○の父」という別称まである。首都クアラルンプールには歴代首相の記念館がもれなくある。主に首相官邸を改造し、いずれも市内中心部西に隣接するレイクガーデン周辺にあり、この地域に要人宅が集中していることが伺われる。
初代首相のラーマン記念館はバンクヌガラ駅からダトオン通りを上ったところにある。十九世紀末の木造建築The Residencyは「独立の父」のお気に入りで、首相官邸Seri Taman竣工後も住み続けた曰くつきの建物だ。中身は中央居室の他、政治、マスコミ、趣味関連などごった煮で、他の首相記念館と違って、官製らしからぬ野党的な展示も散見される。
二代首相にまつわるラザク記念館は、国立モスクからバードパークへの途中にあるが、1982年にはじめて設置された首相記念館だ。Seri Tamanは元々マレーシア最初の首相官邸だったが、1962年の副首相時代から首相在任中に亡くなるまでラザクの住居だった。ちなみに隣は警察長官宅だ。「発展の父」らしく、各種プランを立案したオペレーションルームなどがそのまま展示されており、子息のナジブ現副首相の若き日の写真も見られる。
2006年2月に開館したフセイン・オン記念館は、子息のヒシャムディン教育省兼UMNO青年部長がアブドラ首相、ナジブ副首相を招いて開館式典を行った報道が記憶に新しい。他の記念館ではほとんど故障中の映像ブースもまだ機能しており、「統合の父」について関係者が語るオーラルヒストリービデオは必見だ。場所はラーマン記念館への途中だが、元は首相府だった。
マハティールは記念館こそないが、アロースターの生家が保存されているし、プトラジャヤのヤヤサン・プルダナ内に顕彰展示がある。クアラルンプール市内では1983年から99年までの公邸Seri Perdanaが公開されている。KLセントラル駅を背に、ダマンサラ通りから小道を入った旧マハティール邸は、車でしか行きようのない場所だが、ニュースに登場していたせいか誰でも知っており、地図にも載っている。食堂や子女の個室がそのまま残されていて、他のマレーシアの豪邸も中はこんなだろうと想像できる。地下のキッチンでマハティールが料理している珍品ビデオや、カーマニア振りを示す2020ナンバーのプロトン高級車など自動車コレクションも展示されている。「開発の父」の居室からはKLタワーとKLCCがくっきり見えた。
これらはすべて国立公文書館の事業の一貫で、他にマラッカの独立宣言記念館やクアラルンプールとペナンのP.ラムリー記念館など、いずれも歴史的建造物の保存と資料の展示を併せて行っている。アブドラ現首相の記念館はどこに、何の父として建設されるか楽しみだ。
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多民族国家の国民食
2006年07月18日 · Malaysia
平和な国家間競争の場である博覧会に、どんなものが出品されているかは興味深いが、2005年愛知万博のマレーシア館では800円のロティ・チャナイが、一時帰国したマレーシア在留邦人の間で話題になった。この値段ならマレーシアで20皿、シンガポールでも10皿以上食べられるからだ。ドリンクやサラダがセットだったわけでなく、二種類のカレーがついてくる、現地そのままのメニューだったようだ。
万博でマレー系のナシ・レマでなく、インド系のロティ・チャナイが選ばれたのはそれなりの意味があると思う。大学内でも街中でも、マレー人と他の民族が一緒にテーブルを囲んでいるのをほとんど見かけない。宗教と食文化の異なる民族が一緒に食事を摂るにはどうしたらよいか。マレー料理はもちろん、国際食のはずの中華も、マレーシアではそれぞれの民族に限定されている。ハラルであることが大前提だから、浮上してくるのはインド系ムスリムの料理だ。どこのフードコード、街角にもあるママストール(屋台)がそれに当たる。
マレー語で母方のおじを指すママ(Mamak)はインド系ムスリムの自称ではない。しかし、朝から晩まで開いていて、数リンギでお腹いっぱいになるママストールは、民族を問わずマレーシア人共通の食文化である。バレンタインデーのおすすめスポットの一つとして、ママストールを挙げている記事を読んだことがあるが、行きつけのママストールは知り合いが多すぎて止めた方がよいとも書かれていた。飲むのはテダレ、そして食べるのはロティ・チャナイである。
日本でほとんど見かけず、あってもばかばかしく高価なロティ・チャナイをおみやげにしたいとき、スーパーで冷凍ものを買う手もあるが、KLIAならレベル2のフードコートで出発間際に焼き立てが買える。容器持参で日本に持ち帰れば、明日の朝ご飯はロティ・チャナイ。空港の大きさ以外でKLIAがチャンギ国際空港に勝るポイントの一つかもしれない。
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夢中人
2006年07月17日 · Cinema&Play
キリン生茶のCMソングに「夢中人」が使われている。でも歌っているのは王菲ではない。アメリカで活躍するアイリッシュグループ、THE CRANBERRIESの「Dreams」とクレジットされている。夢中人は言わずと知れた王家衛の映画『恋する惑星』(重慶森林)の主題歌。タランティーノ絶賛の本作は、王菲と金城武が日本で広く知られるきっかけとなった。1994年の封切時に、クアラルンプールのチャイナタウンで、映画好きの若い作家と一緒に見たあと、興奮してしゃべり続けた覚えがある。クリストファー・ドイルのカメラが印象的だった。というわけで、この曲は映像とともに記憶されていて、どうしても王菲なのだが、昨年マレーシアでもクランベリーズ版がよく流れていて、改めて確認してみるとDreamsは1993年で夢中人より先。何と王菲の方がカバーだった。王菲は中島みゆきの「ルージュ」をカバー(容易受傷的女人)でヒットさせていて、東アジア、東南アジア華人世界では、すっかりフェイウォンオリジナルと思われている。こうした例は結構あり、カラオケで日本語原曲の中国語曲を検索するとかなり出てくる。しかし、Dreamsのように欧米からアジア経由で日本というベクトルは珍しいかもしれない。
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ヴェロタクシー
2006年07月16日 · Bicycle
銀座でVELO TAXI発見。
なかなか目立ちます。写真はちょうどHIS前を行くHISのラッピング広告車。1997年にドイツで環境にやさしい交通手段として開発された自転車タクシーは、日本では2002年、京都議定書の年にその京都で認可されたのが最初とか。私の見かけた銀座のヴェロは2005年4月から運行している。ドイツ製の車両はリキシャやベチャのように完全な人力でなく、電動アシスト併用。シクロの本場ベトナムでも、ホーチーミンで観光用に導入される計画があるらしい(Nhan Dan 2006.7.5)。愛知万博時の運行で認知(期間中32万人が利用)された日本のヴェロは環境共生都市推進協会の直営およびフランチャイズによる。都内では銀座に先行して六本木、特にヒルズ周辺を走っている。丸の内の丸ビルに専用停留所もあるそうで、大人二人または大人一人と子ども二人くらいは乗れそうだから、ぜひ試してみたい。運賃は初乗り500mまで大人300円(子ども200円)で以後100mごとに大人50円(子ども30円)で一人ずつだから、大人一人、子ども二人でたとえば渋谷駅からこどもの城まで700円。乗車運賃はすべてドライバーの収入とのことだが、下り坂だと安くなったりしないだろうか。
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クアラルンプール滞在者による研究会について
2006年07月09日 · Malaysia
クアラルンプールにおける研究会と言えば、すでにUM、UKM、次回UPMで五回目を開催予定の国際マレーシア研究会議(MSC)が思いつく。二回目頃からJAMS会員を中心に日本人参加者も多く、会議後に津々浦々から集まった日本のマレーシア研究者が、エスクワイヤやオーバーシーレストランなどに会し、楽しく懇親した記憶がある。MSC会場では現地や日本以外の海外研究者との交流に忙しく、あまり日本人とゆっくり話したことはないが、前記のような席で、特に現地滞在者の話しを聞くのはとても刺激になったし、細かな生活の実際を質問できるのは有り難かった。
前回MSC4のあと、JAMSメーリングリストに「研究会へのお誘い」という記事が投稿されている。(2004年9月)クアラルンプール滞在者を中心に研究会を開催したいという趣旨で、在マレーシア日本大使館の川端隆史氏(当時)によるものだった。現地滞在中の「マレーシア・東南アジア研究者・大学院生、政府関係機関、民間企業、ジャーナリストの方々」の自由な議論の場、という位置づけだった。その後2005年1月から3月にかけ、京都大学バンギ・フィールドステーションでの連続3回のワークショップ「それぞれのフィールドワーク—マレーシア研究の可能性を再考する」があり、内容については21世紀COEプログラムページに詳しいが、現地でフィールドワーク中の研究者だけでなく、当時マレーシア滞在中の日本人が会する機会ともなった。こうした流れの中で、滞在者による研究会が定期的に開催されていったように思う。
多文化社会に分け入って現地滞在している日本人の生活圏は実に様々だ。私自身、2005年度をマラヤ大で過ごし、授業内外での学生との交流、スタッフとの日々のやりとり、研究対象である華人社会への関与などでいろいろ見聞きすることができた。しかし、その後開催された滞在者による研究会と引き続く懇親会の席で、マラヤ大、国民大、国際イスラム大の日本人と大使館や国際交流基金などのスタッフ、ジャーナリスト、ビジネスマンの方々など、それぞれの立場からの見方、理解に触れるにつけ、浅学な視野が広がる思いだった。資料の所在や具体的な生活の問題など、ずっと悩んでいた技術的な事柄があっと言う間に解決することも度々あった。お互いの人脈を交換し、現地ならではの直接取材による研究を始める糧にしたり、平板な文書館通いの合間の食事会として純粋に楽しむ向きもあったように思う。参加者の思いはそれぞれだが、毎回10名前後の参加者がいたところを見ると、それぞれ得るところがあったのだろう。研究会は以下の通り、ラマダン期間などを除き、ほぼ隔月で開催されたが、夏期休暇中の会合は日本からの参加者が多かったり、英語セッションではマレーシア人や中国からの留学生の参加も見られた。
しかし、人の移動が激しいのが現地滞在者社会の常である。2005年下半期から国民大、国際イスラム大の主要メンバーが帰国し、2006年に入って発起人の在日本大使館川端氏も異動され、マラヤ大のメンバーのうち3名は、年半ばまでには帰国が決まっていた。当初の運営者がいなくなれば、開催されなくなるのが私的な研究会の運命である。しかし、何とも惜しい、こうした現地での会合を存続させることはできないか。残されたマラヤ大のメンバーを中心に相談した結果、これまでの全く自由な研究会から半歩踏み出し、運営ルールの策定、ウェブの開設( http://jamskl.seesaa.net/ )、とりあえず2005年度中のJAMS地区研究会としての認定等、続けるためのシステムを整えた。毎回懸案だった開催場所も、国際交流基金クアラルンプール日本文化センター所長の協力もあり、定常化のめどが立った。
呼び方も決まっていなかったこの「研究会」が、今後どのように消長していくか私にはわからない。それぞれがマレーシア社会の中で忙しく調査、研究、業務を進めていく滞在者社会にあっては、当初の全く決めごとのない形態が合っているのかもしれない。ひとまず長期滞在者の列から離れる私としては、今後も入れ替わり続けるであろう、現地メンバーの活動を見守るばかりである。なお、マレーシアへ渡航、滞在のご予定のある方は、上記のウェブを通じ、研究会の世話人宛にメールでお知らせいただければと思う。会員諸氏のご関心とご協力を請う次第である。
クアラルンプール地区マレーシア研究会2005年度会合一覧
(所属はすべて開催当時、敬称略)
日時:2005年5月13日(金)18時
場所:Bangsar Permai
報告者、題目:
東條哲郎(マラヤ大学/東京大学)
「ペラ州錫採掘における地域性−歴史学的アプローチ−」
塩崎悠輝(国際イスラーム大学)
「キー・ワードでみるマレーシアのイスラーム」
日時:2005年7月28日(木)18時
場所:国際交流基金クアラルンプール日本文化センター
報告者:滝口健(国際交流基金クアラルンプール日本文化センター)
題目「マレーシアの舞台芸術、その現状と展望〜現代演劇を中心に」
日時:2005年9月23日(金)
場所:The Taj, Crown Princess Hotel
話題提供者:鳥丸豊(Managing Director, OTAX Electronics Malaysia)
題目「マレーシア日系企業経営とその周辺」
日時:2006年10月21日(金)19時
場所:クアラルンプール日本人会
報告者:Josh Hong(UNHCRクアラルンプール事務所職員、マレーシアキニ・コラムニスト)
題目「History memories in regard to WWII and the clash of Sino-Malay nationalisms in Malaysia」
日時:2006年2月8日(水)
場所:クアラルンプール国際交流基金会議室
報告者:川端隆史(在マレーシア日本大使館)
題目「これまでのマレーシア、これからのマレーシア〜2000年8月6日から2006年2月24日の私の体験から〜」
日時:2006年3月11日(土)
場所:国際交流基金クアラルンプール日本文化センター会議室
報告者:舛谷鋭(マラヤ大学/立教大学)
題目「マレーシア華人社会における反日世論の形成」
※以下は京都大学バンギ・フィールドステーションの活動だが、報告者は当研究会の主要メンバーでもあった。
日時:2005年9月7日(水)
場所:マレーシア国民大学マレー文明・世界研究所
報告者、題目:
伊賀司(マラヤ大学/神戸大学)
「マレーシアの政党政治への視角:70〜80年代UMNO党内政治を中心に」
塩崎悠輝(国際イスラーム大学)
「マレーシア社会におけるイスラーム主義運動と公共圏の形成」
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東南アジア史学会の情報化について
2006年07月07日 · Area Studies
東南アジア史学会は本年11月11日に設立40年を迎えるが、今から10年前、第16期(後藤乾一会長)の55回大会時の会合でインターネットの活用が提案され、併せて情報化委員(現情報化担当理事)が新設された。最初の取り組みは1996年12月からはじまったメーリングリスト「SEAML」だったが、ほどよい投稿量と内容の豊富さで、速やかに定着したように思う。当初の目的である会員同士の議論と交流という点からすると、後者に偏ってはいるものの、従来なかった新たな「場」として順調に育ち上がった。数年前まで説明の難しかった誤配信とスパムメールの違いについても徐々に理解が得られ、2004年6月からは入会とともにメーリングリストへの登録が行われるようになり、事務局が一斉メールとしてリストを利用することも増えている。
もちろん、学会の情報化への取り組みはメーリングリストだけではない。学会ウェブは、トップページのhtmlソース冒頭に埋め込まれた記録によると、情報化担当設置の翌年、1997年5月に開始され、その年の秋季大会終了後に公式ページとして認められている。現在、国立情報学研究所(NII)にサーバを置くウェブの内容は、学会の紹介、研究大会の案内をはじめ、メーリングリストで流れた有益な情報のウェブへの転載が、特に1998年から体系的に行われている。日本における東南アジア研究活動の記録という面から、「研究会/国際会議/研究助成などの案内」として過去の記事も保存されている。
デジタルアーカイブはNIIの電子図書館プロジェクトなどを通じて広く知られるようになったが、学会の紙媒体である会報と会誌のうち、前者は個人情報を除いてすべてデジタル化され、NIIのサービスによって見ることができる。会誌については目次の入力に留まっているものの、すでに2004年12月に著作権規定が定まり、ネット配布に関わる公衆送信・伝達権などが会長に譲渡されることになっているので、2005年以降の会誌本文のアーカイブ化が、遠くない未来に実現することだろう。
もう一つ、学会ウェブの内容を豊かにしているのが、東南アジア関係文献目録データベースである。会誌巻末の東南アジア関係文献目録は、その速報性から他の目録の元データにもなっている重要なものだが、これまで、大学院における徒弟制の底力によって綿々と維持されて来た。学会では情報化担当を中心に科研費研究成果公開促進費の申請を続け、1999年度と2005年度に採択され、会誌ではページ数の制限で割愛されていた書誌も含め、再チェックを経てデータベース化している。学会ウェブからはダウンロード版の配布が行われているが、オンラインデータベースとして、GeNii(NII学術コンテンツ・ポータル)の一部であるCiNii(NII論文情報ナビゲータ)から見ることができる。
最後に、学会ウェブの一部ではあるが、あまり知られていない東南アジア関連リンク集について紹介しよう。このリンク集を含むウェブ作成、メーリングリストなど、情報化担当者の職務は日々に渡る。ところが、委員時代は各期2名ずつ指名されていたにも係わらず、この十年間で情報化に実際に関わった人員はわずか5名に過ぎない。これは、ウェブの管理が特定の技術を要すると考えられているからだ。しかし、これではあまりにも負担が集中し過ぎる。もっといろいろな人材がこの仕事を担える工夫はないものか。そうした試みの一つとしてこのリンク集は会員が自由に登録、修正できるような仕組みを採用した。CMS(サイト構築の自動化)とは言い過ぎだろうが、私は専任事務局を持たない学会が、自前でウェブを維持していくには、ブログ形式で広く知られるようになったこの類の仕組みを積極的に活用する必要があると考えている。ウェブを外注するために会費を変更した学会もあるという。この文章をここまで読み進められた方々は、ぜひリンク集にアクセスしてほしい。東南アジア研究に役立つページを集めているが、消滅したページや足りない項目を発見されることだろう。そこでぜひご自分で手を加えて欲しい。そして、ウェブ上の学会資産に情報を付け加えられたあなたが、共にこの任を負うて下さることを切に希う。
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ホラロジー
2006年07月06日 · Area Studies
多文化関係学会幹事役の同僚の誘いで、立教で行われた研究会に出た。「ホラロジーの会」と称し、簡単に言えばほらを吹く会だが、ねらいはお互いに研究していること、興味のあることを話し合って切磋琢磨する会とのことだった。発起人が急遽欠席で苦心の進行だったが、趣旨は理解できた。“仮説を戦わせること、それにより真理に迫る”「仮説」ということばからパースのアブダクション、もっと具体的に言えば京大の梅棹サロンを想起した。発起人もサロンの参加者の一人だったはずだ。Rule-Case-Resultの演繹、Case-Result-Ruleの帰納でなく、観察の後直ちに「大陸は移動する」などとホラを吹いて、のちのち事例が発見されるという論理形式だ。(Result-Rule-Case)早速ミクシィに同名のコミュニティを作った。いま、会合で人を集めるには、ミクシィの関連コミュニティでイベント紹介するのが最も効果的という実感があったからだ。
夕食時、母子の会話
子:この春雨サラダ、食べても食べてもなくならないよ
母:あら、いいサラダね
子:...じゃ食べなよ
母:(子のサラダを食べる)
母のことばで子の最初の発言のホラが浮かび上がったが、子はそれに乗じて逆襲した。ホラへのコメントは責任を伴うものなのだ。
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